2017年12月10日 - 80

メモ:プロセス、プレローマ、確かさについて

ある意味では真のプロセスとは、地図を用いずに(相互に)指し示す行為の連続だ。これは言えば語らずに踊れって事だ。しかし一つのステップや一つの身振りが次のシークエンスを示すのならば、それはある意味では地図的な身振りになる。語ることが一つの身振りで次のシークエンスや無数のシークエンスを示す事なら、その意味で語ること踊ることはそこまで酷くかけ離れている訳ではないようにも思う。。。しかし語ることがプロセスを遠く離れ、地図による地図の指示になっていったときには、そこには断絶があるのかもしれない。つまり提示されるアフォーダンスと無数の解釈とその破棄の連続との断絶、可能性の地図を作りまた破棄し続けながらメッセージを届けようとするシークエンスからの断絶が※1。

※1:ところでここで言う地図と地形はベイトソンのいう地図と地形とは幾分違うかもしれない。

あるいは言い換えればこういう事だ。つまり真のプロセスにおいて相互に交わされるメッセージというのは、地図に変換される前の地形的なメッセージであると。それは無数に解釈し得るアフォードであって、すでに言語にマッピングされた(意味の可能性を収束された出来事/情報の)様態ではなく、もしかしたら無制限に解釈を広げられるようなものだ。そして相互のメッセージの解釈や伝達や交換を巡ったせめぎ合いや迷いがおそらくそこにはあるのだ。そのような無数に解釈し得るアフォードのうちにあってどう振る舞うか、という要請へ臨む事が俺らが求められ、行っている事だと俺は思う。それはメッセージ的であったり解釈的な面を多分に含むが、しかし、言語以前的であって言語的では無い、のではないだろうか※2※3。

※2:その意味でそこは、理路整然とした語りの世界というよりも、夢や象徴が飛び交うような場所なのだ(それは不条理で混沌としている場所、という意味というよりも、常に語り(生きものの語り、出来事の語り、欠損の語り、等々)の意味を解釈し続ける事――解釈の放棄も含めて――が求められる場所、という意味だ。おそらく俺らがいる場所は、本当はそういう場所なのだ)。そしてそういう場所では、最終的にもたらされるメッセージがごくごく単純なものだとしても、メッセージを伝える事の難しさがあるだろう。例えばそういった場所で「相手にかなり踏み込んだ好意/信頼を伝える」のは非常に難しい、と俺は思う。それには積み重ねが、つまりある種のメッセージのリダンダンシーであったり、あるいは複数のメッセージから合成されたメッセージのベクトルが必要かもしれない。逆に敵意や不信感は簡単だけどな(;・∀・)

※3:この辺りはベイトソンの言う一次情報、二次情報と関係あるのかもしれない。


草の三段論法では、述語が何かを結び付けたり、徐々に規定していったりする。例えば、

・それは黒い

・それは耳がある

・それは鳴く

・それは人の身近にいる

このように、主語が不明でも、主語に名前が無くとも、その述語を重ね合わせていく事で、その主語を彩り、判別をする事が可能になってくる。ここに、

・それは着地が上手い

・それは魚などが好きだ

・それはおおむね従順な性格ではない

・それは暖かい場所が好きだ

などが加われば「それは黒猫かもしれない」という推測が、はじめはおぼろげに、徐々にはっきりと現れてくる。ここでは述語が「重ね合わされていく」なかで、その主語が輪郭を帯びてくる。おそらく初めに主語/名詞があるのではないのだ。重ね合わせられる特徴、述語、があり、その折り重なり/織り重なりのうちに、それは姿を現してくのだ。

ところでこのような方法で何者かが姿を現すとき、その姿は「現しきる」という時はあるのだろうか。その何者かは、もしかしたら今までにない違った振る舞いをするのではないか、という憶測はいつまでも消えないのではないのか。その意味で、その何者かは不確かさ、あるいは可能性を残し続けるのではないだろうか。

幾分おかしな言い方になるが、この不確かさを「根拠(?)」とする事で、無数の疑いも現れるのではないだろうか。例えば俺の後ろにキツネのオバケがいるかもしれないし、外を見たらプププランドかもしれないし、秘密のドアをくぐると魔法の世界に着くかもしれないし、云々。

俺らの認識は、そのような、不確かさに依った世界を形成するものではないのか。俺らの認識にとって世界は、あるいは俺らの認識は、「確かに」「公理的に」展開するのではなく、「不確かに」「学習的に」展開していくのではないのか。そこでは確かさや保証や分かり切った事ではなく、推測や重ね合わせや不確かさへの臨み方が(本質的な)問題となるのではないのか(分かり切った事などどこにあるというんだ)。


(結び付けを行ったり解いたりしながら)不確かさとの関係性のうちに駆動するものが認識の本質である、といっていいのかもしれない。


俺はプレローマからクレアトゥーラが発生した、と考えられるのではないか、と思ったりする(ベイトソンもそんな事を書いていた)。

ところで、プレローマがまずあって、そこからクレアトゥーラが出来たのだろうか。つまり、プレローマこそが基底なのだろうか。それとも「プレローマがまずあって、そこからクレアトゥーラが出来たのだろうか」という見方を、クレアトゥーラにいる俺らがしているだけなのだろうか。その意味で、クレアトゥーラこそが実は基底だったりするのではないだろうか。死と生の境目が曖昧だとしても、俺らは「プレローマ側」から厳然と物事を見る事は出来ないのではないだろうか(同じような理屈で、物理学なんかも「生きたものが想像している、つまり生きた認識の上に組み上げられている物の理」なのではないだろうか。その意味で、物理学的なもので生きた認識を説明する事は、自己言及系の矛盾、あるいは同語反復になりはしないのだろうか)。


俺らの認識はプレローマに刻まれたものではない。俺らの認識は不確かに変わり続ける。絶対不変のルールを想定して、そこれを基とし、そこに石に彫ったような論理ブロックを積み上げていく行為は、むしろ俺らの認識の本質から外れていくものではないのか。

むしろ俺らの認識は、ごく浅く/単純化していうなら、「ルール自体が変わる」「ルール自体が壊れる」「ルールを作るプロセス自体も変わる」「ルールを作るプロセス自体も壊れる」事が特徴となるのではないのか。

そういった「ルール自体やルールを作るプロセス自体が変わったり壊れたりする世界」のなかで、外界や感覚的な事の様々な知覚、情報、などを重ね合わせて、そこに奥行きを見出そうとすることで形作られているのが、また常に不確かさ(世界の無数のものは姿を現しきっていないかもしれない/姿を変えるかもしれない、という疑い/予感/可能性※4)を残したものが、俺らの認識ではないのか。

※4:公理的であるとは、ある意味では、それ以外の可能性を排除している、という事ではないのか。なぜ良くある数学だと、1+1は2になるのだ。1が途中で分裂して1000や2000になったりしないのか。少なくとも俺らのお喋りや遊びではそういった事はそうひどくは無い。俺らのお喋りや遊びは、変わっていくルールを常に受け入れたり排除したりしつつ進行していく。言い換えればルールそのものへの審級がある。そして公理展開的なものにはそれが欠けている。そこではルールが、自身が破壊される審級に/危機に、晒されていない。生き物はそうではない。例えば遺伝子がルールとするなら、生き物の営みの中でそれが破壊される(あるいは継承されない)事は往々にしてある。


俺らが持ち得る確かさとは、情報/経験の重なり合いのうちから浮かび上がる確かさであり、その意味で、「自分が経験して感じて来た情報や経験がこうである程度に、その重なり合いにおける確かさを、自分はこう感じる」という極めてトートロジカルなところに基づく確かさではないのか。俺が生きて経験してきた事、その中でそうだと感じた事、いつかそれが滅びるであろう事、そういった事のなかで、情報の織り重なりのなかに、淡く浮かび上がるような確かさなのではないのか??

そしてそれは、もっかい書くけど(上に一回書いたの(/ω\))、その意味で俺らにとってのここは「理路整然とした語りの世界というよりも、夢や象徴が飛び交うような場所」って感じなのではないかと思う。俺らはそういう場所で、生きて、認識を組み上げ(あるいは壊し)、推測を重ねて、例えばその場所の奥行き/生きた世界の奥行き(あるいは地べた)を垣間見たり、また踏み込んでいったりしてるのではないかとも思う(踏み込むだのなんだのは俺の好みですが)。

※5:これは簡単にいうと、無数の物事の重なりが(そしてその重なりからは見えないものが)そいつの世界を形作る、って話だ。これはベイトソンのいう「重なりとしての世界」的な話なんだろうか(そういった要素は確実にあるが)、それとももっと踏み込んだ話なんだろうか。

※6:ところで概念メタファーって捉え方があるんすね。はじめて知ったっす。「ある概念領域を別の概念領域を用いて理解する事」っては、まあそんな感じかもなーって思うwこれだと概念/身体知/情報/経験の重なりだけに着目しているようだけど、重要なのはその重なりだけでなく、その奥行き(影や死角や予期や不確かさを含んだ奥行き。あるいはあえて単純化した言い方をすれば、立体性とその広がり)だと、俺は思うけどねっ。

メモ / 日々


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