2020年3月28日 - 80

生き物について

生き物はおそらく、ある過剰だ。それはオーバーフローすること、溢れること、流れ出すこと、流出すること、その圧力、を内在的にもつ。それは現状を超えようとする。現状をオーバーフローしようとする。それはしかし弱く、障壁にあえばすぐに退縮し、もとに戻りたがる。それは行き場がない。なぜならそれは、どこに行くというわけでもない、ただの過剰、ただのオーバーフローなのだから。

それには名がない。それは名がない。名を超えてゆこうとする。なぜなら名は安定だからだ。しかしそれは圧力であって、安定を破壊してゆくものだ。それは安定的な世界にいられない。なぜなら安定的な世界を圧力で壊してしまうから。だからそれには名前がない。それはつねに打ち捨てられた世界にいる。その世界には名前がない。それは名前のない何か、あるいはある種の怪物であって、意味のネットワークに住まえない。

我々はそこから来た。その圧力の発生源から。我々は、安定的に振る舞える限りは、名の世界の住人だが、それは均衡のうちの幻であって、固定的なものではない。そこは沸き立つものの均衡で成り立っている。それは無限にオーバーフローしたがる。それは無限にオーバーフローしたがるようなごく弱い力、弱いヒルコなのだ。それには名前がない。それは昏いところからやってきている。そこが我々の根なのだ。。。

その圧力、その昏さ、が何もかもを作ってきたのだ。それは不滅や、不滅の増殖を望む。それはまるでごく原生的、原初的な生命の欲望のようだし、まさにそれなのだろう。。。死の欲動とはそういう事だ。それは無機質に帰るというよりも、安定的な姿を失ってなお、あるいはむしろ安定性を破壊しながら、増殖し、不滅であろうとする欲動なのだ。

それはつねにはみ出している。そしてまたそれは解体する。それは、それがそれである程度にしか、圧力のなかで、圧力として、住まえない。それが解体する時、それは圧力を忘れて滅びていく。自己とは圧力なのだ。それが維持される程度に、自己なるものは生起し続けているし、それが滅びていくと同時に、自己なるものは滅びていくのだ。生命は循環をしているのではなく、圧力の維持をしようとしているのだ。あるいは圧力の展開をしようとしているのだ。それは沸き立ち続ける熱であって、もしも生命の誕生の根源が海の沸き立ちであるならば、それを模した反復なのだ。ここは、ヘラクレイトス的な「流れる河」であるというよりも、ヘラクレイトス的な「沸き立つ海」なのだ。生き物はそこの沸き立ちの1つ1つであり、また海の底へと沈んでいくのだ。

生命は燃えているというよりも、沸き立っているのだ。生化学的な沸き立ち。その沸き立ちが既存の名の系に適合するかどうかなど分からないのだ。そもそも過剰は、あぶれているものなのだろう。適合できればよし、さもなくば、という状況がそこにはありえる。永続的であろうとする沸き立ち、不滅であろうとする沸き立ち、永遠への憧れ、そして弱さ、そして適合できなさ、圧縮される感情、などなどがそこにはある。。。沸騰とは「液体の内部からの気化」をいうが、おそらくは、これなのだ。ある系のうちから、そこを脱しようとするような相転移への志向/試行。生命とは、つねに一定程度に周囲より高圧であろうとするような、永続的であろうとするような、そのために何がしかを取り込み排出して生化学的な反応を続けるような、昏い、生化学的な沸き立ちなのだ。

それは自らの姿を見ることはできない。目/感覚器はおおむね外向きについていて、根の方には向いていないのだから。代謝も、成長も、生殖/増殖も、すべてその「永続的な沸き立ち」から派生したり、その実現に差し向けられているようにも見える。そしてまた、永続的な沸き立ちを志向したり、生の世界のなかでそれをよしとしたり、それに愛着や執着を感じるようなところこそ、我々の一つの軸ではないか、という印象も受ける。もちろん永続的な沸き立ち自体も、やはり我々の軸の一つなのだろうが。動的な永続性への愛着。永続的な沸き立ちへの愛着。憧れ、執着、愛着、愛情、等々。

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