2020年3月16日 - 80

心の位置について

ざっくりで、こういう感じじゃないかなと。。。


諸々あるが、ここで個人的に重要だと思うのが「評価」だ。これが、あるシステムが「自身がどういう状況に置かれているのか、それはシステムの存在や存続や運動にとってどのような力学をもたらすのか」という事を感じる事をいう。そのシステムは、それに基づいて自己の姿(フィードバック的な動き)を動的に変えていく。そしてまた「評価」に状況材料を伝達するのが「感知」という事になる。。。多分ゾウリムシも細菌も、何かしらの「評価」を行っている。おそらく外界に向けた感覚器を備えていないものさえ行っている。なぜならそこに必要なのは外界からの感覚情報ではなく、ただの物理的圧迫や熱や水分量だからだ(それが感覚されるなら、それは内的感覚ということになるだろう)。感覚器は、これらの物理的/生化学的変化を、より鋭敏にとらえるための補助手段であって、例えば「圧力を受けて縮むことで、何かが押し出されて吐出されるシステム」には圧力感知系は不要なのだ。そしてまた、代謝や増殖だけでなく「評価」があるからこそ、生命は生命らしく振る舞うのだ。そしてまた「評価」には「評価専用のシステム」は不要だ。システムそれ自体の状態(や存続性や繁殖性)がすなわちそれ評価という事になるのだから。苦しい、とか、緩い、とか、そういったもの。そして感覚伝達は、そういった状態の、象徴的/連想的/生化学的な伝達、という事になるのだろう。なぜ感覚伝達が生じたのかは分からない。単にそれがある個体の方が長く生存したのかもしれない。たまたまかもしれない。

我々はこのようにして、原初的な代謝、増殖/生殖、死から、すなわち生命的なものから、あるいは原初的な接触や変容の行為から、少なくとも文化的/想像的/言語的に切り剥がされてようとしている。もっといえば、我々は死から(あるいは死を含んだ生命性から)、我々自身の生命性によって、切り剥がされようとしている。我々は、我々の生によって、我々の死から疎外されている。我々はそれを回復したがる。そして/しかし、死に至るとき、我々は我々の死によって、我々の生から疎外されるのだ。それら2つは、もろともには手に入らないのだ。ラカン的な現実界は、生と同時には手に入らないのだ。そこへの/そこからの欲望や憧れもだ。そしてまた私が現実界に憧れるのは、まことの接触はそこにしかないように感じられるからだ。だから我々の究極的な要望があるなら、それは「死にながら生きたい」という事だろう※。とはいえ、この要望は、それなりにマスターベーション的であるように感じる。

※(引用):欲動は第一次的に「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象物を媒介とするが、その究極的対象は現実的な〈もの〉としか言いようがない「das Ding」という「無の場所」「享楽の在処」である。すなわち、欲動とは本質的には「無に還る」という「究極の快楽原則=死の欲動」ということである。引用元はこれ。個人的にはめちゃめちゃ良いんだが。

「死にながら生きたい」という事と、「新しさ」としての「死を生きる」という事がある(とする)。しかしこれらはどちらも最終的には妥当ではなく、他との関わりを幾分欠いている。ここに他との関わりが特異なカタチで、かつその者自身にとって真っ当なカタチで介在した時、そこで起きるのは「自分自身を生きる」という事かもしれないように思う。

ラカン(やフロイト)の話は、生理学的システム、生化学的システム、であったものが、シニフィアンを受け入れる事で刻印を押され、ただの生化学的システムから切り出され、違うものになる、という話にも聞こえる。それはある意味では合っていると思う。しかしそれはシニフィアンを受け入れる時なのだろうか??例えばその刻印のタイミングは、出産以降の「システムが自らエネルギーを補給しなければならなくなったタイミング」ではないのだろうか??あるいはもっと手前の、受精以降の「システムがエネルギーを補給をしなければならなくなったタイミング」ではないのだろうか??その意味で、我々は「自らエネルギーを補給しなくても存在していられる世界における生存/存在様式」あるいは「そもそもエネルギーを補給しなくても存在していられる世界における生存/存在様式」に回帰したいと願望しているようにも思う。それは海底の噴火口に戻りたいという事なのだろうか。あるいは無意味なものになりたがってるのだろうか。もちろんそれは我々の解体であるし、しかもその解体が起きたところでそういった生存/存在様式に完全に回帰出来るわけでもない。ここで、このことで、私たちは、死や生や性や誕生や滅びや暴力や従属や破壊やコミュニケーションやあれやこれやの迷い道に立つ。またいずれにしろ、昏さへの盲目性のようなものはついてまわる。

空腹中枢は空腹ではない。では空腹なのはどこなのか??空腹は、ホントかウソか血糖値の低下のサインらしい。という事は空腹になるのは胃などの消化器官ではない。血糖値低下によって変化が起こるシステムの全てだ。この変化を、象徴的に翻訳したものが「空腹のサイン」であり、それを受けて具体的に機能するのが「空腹中枢」という事になる。だから空腹は幻だ。身体は空腹にならず、ただ虚脱状態になるだけだ。ただその虚脱状態を幻に変換したものが「空腹のサイン」という事になる。ここには翻訳がある。単なる生化学システムとしての身体の「虚脱状態」と、その状態を翻訳し「評価され得る」サインへと変換し、受け取るシステムとの、複合的な仕組みが。そういったサインは全体性の象徴として機能する。それは1つの心と言われるものの原型であるように思う。そういった意味で心は、象徴化された身体への、象徴的な評価、の力動系であり幻なのだ。そこには評価者はいない。あれこれの評価が複合的に合わさり、押し合い圧し合いする姿があるだけだ。そしてそれを意識のようなものがキャッチした時「私(の心)はこのように感じているのだ」と判断したりする。そこでは身体(感覚)-心(感覚の評価)-意識/認識(評価の判断)は分かれている。そしておそらく、意識/認識が自らの根へと解体されたり還らなければ自らの根に触れられない様に、心もまた、自らの根へと解体されたり還らなければ自らの根に触れられないような姿なのかもしれない。

火は自らが燃えていなかったときを知らない。自らが消えてなくなっているときを知らない。それを知れるとき、火はないのだから。火は、火の世界しか知らないのだ。しかしおそらくまた火は、火の世界が消えたのちにある闇をおもうことも出来るのだ。その闇はまた、これもおそらく、火の根で、火とつながっているのだ。

ラカン/フロイトのいう維持的な欲動以前に、発生的な欲動はないのだろうか。なんだかそれがないとおかしい気がする。すなわち、無に還る欲動があるのは良いのだが、無から発生しようとする欲動はないのだろうか、という話だ。それがないなら、何が生じたというのだろうか。それともリビドーがそれなんですかね。それならば、デストルドーよりも手前に、リビドーはあったし、デストルドーはその副産物という事になるのではないだろうか。

日々


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