2020年2月25日 - 80

夢について

夢は我々の根源の一面だ。我々は認識する。例えばAをAだと。あるいは痛みを痛いと。

ところで物理的な世界/プレローマを想像すれば、Aも痛みもない。そこには例えば熱や光はあるだろう。しかし熱いとか冷たいとかはない。岩や金属が熱いとか冷たいとか思うとは思えないからだ。熱いとか冷たいといった事は、ある生命の必要とする温度と比べて熱いとか冷たいという話であって、そこでは生命的な温度が基準になっている。痛みもそうだ。痛みなどはプレローマのどこにもないのだ。熱さも冷たさも痛みも、すべて生命の幻なのだ。

さて程度問題はあるにしろ、ある程度原生的な生命は、感覚をしても認識はしないだろう(この2つの境目はとても曖昧なものなのだろうが)。その生命は、水の流れを水の流れと感じ、熱を熱を感じ、痛みを痛みと感じながら、その感覚の海の流れのうちに常にいるだろう。。。それは言ってみれば、我々が夢を見ているような状態に近いのかもしれない。我々は夢のなかで「自覚」をしない。「予測」もしない。ただ流れのままに喋り、動き、感覚するだけだ。。。

逆にいえば、ただの感覚に「自覚」や「予測」が入ってきた時に、それは感覚から認識へと姿を変えていくのだろう。ならばさらに逆に、認識からそれらを外したなら、我々はまた夢のような感覚的世界に陥るのだろう。認識を形作っている領域には、おそらく夢の根がある。。。我々はそれを生きている。そしてそれはクレアトゥーラの幻なのだ。

事物の決め事(例えば法律や規約)、定義、公理などは、我々の認識を前提としたうえにある。我々の認識が瓦解すれば、これらもなくなるだろう。そこには夢が残る。夢が瓦解すれば、そこには我々の認識には到達しえない世界があるのだろう。我々の夢の根/我々の夢がまさにそこで育まれた領域が。

それは熱力学的な、あるいは生化学的な反応群なのかもしれない。そのような湧きたつような熱力学的な泡/物質群の世界から、我々はやってきたのかもしれないし、違うかもしれない。その辺りは古い話になるのだろう。


ところでもしも、原初的な我々が、海底の水の流れから養分を得ながら生化学反応をし続けていくような何かだったとしたら、我々の本質的な臓器は、脳や心臓ではなく腸などの消化器系なのではないだろうか。

ところでまた、我々は生きようとしたリ、認識したり感覚したりする。これらは皆、たまたま、それが出来た個体群の方が長く生き延びたから、というだけではないのだろうか。つまり、より長く残ったものにそういった特徴があったというだけで、生きようとする事も、認識したり感覚したりする事も、実は目的的な事ではなく、結果的な事ではないのだろうか。我々は本質的には、生化学反応をする何かが、結果的に/たまたま、より長く残るような姿をとったにすぎないものなのではないのだろうか(これはもちろん間違っているかもしれない話だ。私は適当な事を書いているだけであって)。ただ少なくとも、生きようとする事、この世界の無数の事象に憧れている事、執着、そういった事は重要な事ではある。。。欲求がなくなれば死ぬばかりだ。欲求とは、根源的なものか、根源的なものに極めて近しいものだ。。。自己あるいは群体の存続への欲求、意志。そういったものが多くのものをドライブしてきたようにも思う。多細胞生物における自己なんてのは群体の一種なのかもしれないが。。。

そしてまた、緩やかではない存続は苦痛を伴うものだ。それでも存続したがるのが生命だ。そこに矛盾がある。。。緩やかに穏やかに消えゆくように存続出来たらどれほど楽だろうか。しかし存続するための努力が始まる時、そこには苦痛が紛れ込む。それは夢に生じる亀裂とも言えるし、多様な分化/進化を促す力とも言えるだろう。それはシステミックで独立的なシステムにおいて、おそらくは不可避のものだ。泡の渦から1つの泡が離れた時、その1つの泡にとってはもう自らを外界から守りながら存続するような事が要請されるのだ。もしかしたら、ある意味では我々は、泡の渦から離れた、1つ1つの泡同士なのだ。我々はもしかしたら、泡の渦のうちにあった柔らかい流れを/流れの柔らかさを、ただひたすらに反復/存続しようとし続けているだけかもしれないのだ。そしてそれに伴って痛がったり熱がったり冷たがったりしているのかもしれないのだ。。。我々の古い夢。最も古い夢。その感触。その反復。

夢の根には、おそらく快(や、快の終焉を嫌う事としての不快)や、生の感覚への好ましさがある。世界への憧れの様なものもあるかもしれない。これは感覚であるだけでなく、感覚への評価でもある。つまり熱さや冷たさや痛みや流れを感じるだけでなく、それを快/不快と感じるような事だ。自己の感覚や世界の感触を好ましいとする評価がある、という事は、生の強い原動力になりえる。もちろんこれがなくても、生は機構的にドライブするかもしれない。しかしこの感覚/評価がある事は、単なる機構的なドライブから、生を、自ら自身の欲動として自己維持やなんらかのものの維持や変化に駆り立てるものになっているように思う。(感覚の)評価出来るということは、単なる機構と生命とを分ける、決定的な分水嶺なのだ。もちろんこの評価だって、たまたま出来たものかもしれない。ただそれがあった個体の方が、より長く存続したというだけかもしれない。すべては存続の長さによって評価されるだけで、快/不快で評価される事ではないのかもしれないが。。。

そして我々は(もしかしたら)そのような泡のなかから出て来て、いまは関係性のなかにいる。。。そこで幻をみる。。。

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