2020年2月28日 - 80

連想について、夢について

我々は世界を体験する。しかし、Aの次にBが現れ、Bの次にCが現れる、という訳ではない。もし世界がルールが定まっているところなら、世界はそのルールが展開する様に現れるかもしれない。しかし世界のルールが定まっているかどうかという事を我々はおそらくは知らない。あるドアや小道の向こうには、見慣れた風景ではない風景が広がっているかもしれない。Aの次はKかもしれないし、空は青ではなく赤や緑かもしれない。世界で次に何が起こるか、我々には何も分からない。今までただの一度もなかったシーケンスで事象が現れるかもしれない。

我々の記憶や夢というのは連想的だが時系列的ではない。過去と現在は容易にまじりあう。おそらく我々の認識というものがそうなっているのだ。我々の認識は、Aの次にBが来ても、CやXやJが来ても良いような作りなのだ。そこでは事物はどのように繋がっていても、どのように断絶していても構わないのだ。おそらくその様だからこそ、我々の認識は柔軟に、Aの次はBであり、Bの次はCである、と一度捉えれば、次からもそのように捉えるような捉え方が出来るのだ。そしてAの次がCであり、Cの次はEである、というようなルール変更も受け付けられるのだ。

だから、Aの次はBであり、Bの次はCである、と我々が捉えるのは、たまたまそのように物事が進む経験に出くわす回数が多かったからというだけだ。まったく同じ理由で、今日の次は明日であり、空は青く、陽は眩しいものと捉えているのだ。つまり我々の認識が可変的であるにも関わらず、同様の事象が繰り返し起きているので、我々はそれを可変的ではなく固定的なものと捉える、という話だ。

我々の認識は、おそらくは、そもそもが可変的で順不同の夢のようなのだ。我々は常に夢のなかを生きている。ただしそれは相互に審級をうける夢だ。それが現実と呼ばれるものだ。現実は、(別の夢との)審級を受けるか否かという以外に、ただの夢との違いはない。しかしそこでは、例えば、私という個体、だけに都合のいい夢は現れない。個々の夢は審級しあい、互いの相互作用のうちで滅びたり生じたり変容したりするからだ。(前提もないままに)夢の生じる機構こそが、我々の根に近しい何かなのだ。あるいは、言ってみれば「私」とは、ある夢と、別の夢との遭遇の境界面の名称なのだ。あるいはまた「私」とは、ある夢にとっての動き続ける流れの(感知/感覚の)事だ。それは、その流れが止まれば、夢が瓦解するような流れだ。


例えば、ある程度深い自己受容というのは「私は、私と呼ばれるものの内奥の、ネゲントロピーの集積作用(あるいは集積および整流作用というか。。。)を受け容れ、愛している」というようなものであるように思う。つまり「私は、私の生命感を受け容れ、愛している」という話だ。

そこには、生命感それ自体と、生命感の感触がある。いってみれば、そこには生命性と認識作用がある。それらには少し距離のようなものがある。我々が普段我々と言っているのは、どちらかと言えば自身の生命感ではなく、自身の認識作用であるように思う。しかし認識作用は、おそらくは生命感に根を持っている。認識や、あるいは感覚すら出来ないような、水を吸って吐くだけの生命らしきものでも、そこには一種の生命感があるからだ。

ネゲントロピーの集積作用が、我々の根/根幹にあることと、実際のところ、我々自身というのは、認識性であるというよりも、ネゲントロピーの集積作用である(あるいはその分裂作用であったり)ということは、1つの重要な事だ。。。それは、感覚や認識よりも深い領域の作用が、つまりは(夢を見るもの自身すら到達できない)夢のはじまりが、そういうものであるかもしれないという話だ。。。

例えばもしかしたら、植物や細菌は、認識の(都合の)世界というよりも、ネゲントロピーの集積の(都合の)世界に住んでいるのかもしれない※。古い夢、古い話。ここでいう古さは重要な事だ。それは例えば、コンピュータが、アプリケーションの都合ではなく、OSの都合で動き続けているようなことだ。ある意味では認識とはアプリケーションであって、OSではないのだ。もっと原初的な働きや、原初的な働きに関わる働きがOSとも言えるものだ。しかしまた、アプリケーションはOSの、ある意味での派生物でもある。。。そしてまた、我々が「(一定程度)自覚的に」生きられるのは、そのアプリケーションの話だけなのかもしれない。。。

※:そういう意味ではコンビナートも似たような都合、つまり表面的な認識よりももっと深く断固とした都合で動いているように感じられる。それはもちろん機械の都合なのだろうが、古い夢のような不変性が、そこにはある。

余談だが、コンピュータ的にはまた、OSは、ハードウェアとのインタフェースでもある。ハードウェア、プレローマ。とはいえ、生命的な現象を、コンピュータの比喩で語り続けるのは違うとは思うけれども。

これも余談だが、ノイマンだか誰かが「生命とは自己複製する機械である」みたいな事を言っていた気がするが、それだけではなく、自己維持のための「ネゲントロピーの集積」と「その集積状態の評価(に基づくフィードバックアクション)」も、生命の特質に含まれるのだろう。こんな事はそっち系の分野でよくよく言い尽くされている事かもしれないが。とはいえ、状態評価が出来ないものは、正常に動いている生命とは少し違うように自分には思える。少なくとも暴走的というか。とはいえある種の暴走、つまり「学ばないこと/変わらないこと」もまた重要だ。。。

そしてまた「我々」という呼称が名指すものが「認識性としての我々」であり「生命感としての我々」ではあまり無いような場合、そこで言う「我々」は、粗くいえば、アプリケーションであってOSではないのだ。しかし世界はアプリケーションの都合(だけ)で動いているのではない。。。我々という認識性が寝ていたり気絶していたり、あるいは生じる手前の段階であったり、そういった場合でも、動き、我々という認識性を生じ、あるいはまた(認識のことを夢というなら)「認識という夢、の始まりの場所」かもしれないような領域が、そこにはあるかもしれないのだ。そしてまた、もし「我々なるものが、認識性/感知系であるというだけ」なら、我々はその領域には、解体すること無く辿り着けないかもしれないのだ。それは「夢」が「夢の始まる手前の世界」に行こうとするなら「夢の始まる前であったときの姿」になる必要があるであろうからだ。その姿とはつまり「夢ではない姿/夢が夢になる前の姿/夢が構築されずに解体されていた時の姿」という話だ。別にこれは花でもいい。花が根の世界にいくなら、それは花が花として咲く前の姿にならなければ行けないであろう、という話だ。

我々はある意味では、自らが生きようとする夢/現実/物語を、選び続けているのだ。。。それは例えば、私が、私の名で呼ばれる事を今日も受け入れ、家族をその名で呼ぶ事を今日も行うといった、そんな事もそうなのだ。(一般的に言う)「狂った」状態を選ばず、(これも一般的に言う)「正常な」状態を選ぶこともまた、自らが生きようとする夢の選択なのだ。

認識性としての私、が私である時、私は、自身の生命感を感知したり評価したりする。そしてまた私の周囲の「私に似た者達」を感知したり評価したりする。私の周囲の者も、私を感知したり評価したりするだろう。そのような相互評価の系のうちに我々はいる。その系のノードとして。そして個々のノードの根には、個々のノードの生命感がある。そして我々は時に/往々にして、生命的で受容的な相互性のうちに存在したがる。。。それは生命感が生じた姿、古い夢の姿なのだろうか。

メモ


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