2020年4月15日 - 80

アクセシビリティについて その3

死は、私たちを消去する。死は、認識の死なのだが、それだけでなく、認識が生起してきた昏さのうちの一定領域の死でもある。それはつまり、我々なるもの/私なるものの認識が、二度と再び生起してこないであろうことを告げるものだ。。。

ところで、私たちはおそらく、物理的存在や生理的存在である「以前に」認識的存在であるように思う。あるいは私たちは、不定形な認識そのものだと言っても良い。そしてまた、その不定形な認識が生起してくる領域が、私たちにとっての「真の身体」だと言っても良い。それは感覚や知覚以前の身体、感覚や知覚を生起させる身体、私たちの認識/私たちという認識の根であり土である領域だ。

死とは、私たちの認識/私たちという認識が死ぬだけでなく、私たちの認識/私たちという認識の根であり土であるこの領域/真の身体が死ぬものだ。それは不定形であり、その意味で可能性である、私たちの認識/私たちという認識という可能性を消去するものだ。

そして/ところでまた、真の身体同士に、アクセシビリティは通い得るのだろうか、通うのだろうか。言い換えれば、真の身体同士は遭遇し得るのだろうか。それは例えば心中のような、(死ぬ寸前の本人同士にしてみれば)一種の耽美的な話のなかの出来事なのだろうか。私たちに孤独があるとしたら、社会的存在しての孤独や、認識的存在としての孤独だけでなく、真の身体としての孤独があったりはするのだろうか。それともそうではなく、真の身体なるものはどこかに繋がっていて、我々/私は通常はそれを知る事が出来ない、というだけなのだろうか。ところでこれはまた、バタイユ的な言い方をすれば、内的体験同士は遭遇し得るのだろうか、ということなのだろうか。


ところでまた、我々は、感知しえないものでも雰囲気を感じる事が出来る。これは我々の感知の方式が、1つには勾配/示唆/アフォードに拠っているからだと私は思う。我々は情報の勾配や遮断や折れ曲がりによって「今感知し得るものの先にありそうなもの」を推定しながら行為する。これもまた、ある種の評価機能の振る舞いの結果なのだろうが。

また我々は、あるいは我々の認識は、不定形だ。私が今の姿ではない姿になったとしても、私はそれを(徐々にでも)受け入れるだろう。それは私の物理的生理的が一定程度定型的であるのに対して、私の認識が一定程度不定形的であるから、であるように私には思える。もしかしたら/おそらくは、私たちの認識は、ある連想的、シーケンス的な振る舞いが可能というだけの、順番も姿もめちゃくちゃなものなのかもしれないのだ。例えば思い出は、時系列に関係なく浮かび上がる。私たちの通常の認識は、自ら作為的に「時系列的に」事物を並べて捉えているだけで、その内実では、その系列はぐちゃぐちゃな順序に乱され得るのだ。つまり私たちの認識は、無時間的なのだ。

メモ / 暮らし方


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