2021年4月7日 - 80

無題

我々は感覚と、感覚のベクトルと、その消失点で、事物を視ている。事物自体あるいは事物の内奥はその消失点にある、と我々は予測している。我々は事物には直接は触れられない。我々が触れられるのは消失点に向かう感覚のベクトルなのだから。

だが言い換えれば、我々は消失点への予測や予期や予感を介して、事物自体あるいは事物の内奥に触れるのだ。そしてそれはあくまで予測や予期や予感であって、確たるものではない。事物の手触りはおそらく確たるものではなく、しかし我々の要望や渇望にとって重要な事物の手触りは(同様に)おそらく我々に響く/刺さるものなのだ。

「そこに事物は(きっと)ある、しかし事物には(予測や予期や予感を介してしか)間接的にしか触れられない」というのが、おそらく我々の認識の姿なのだ。本当に「そこ/事物の在りか」に至るには、我々は解体されなければならない。しかし我々が自己を維持している程度に、それは不可能な事となる。

しかし逆にいえば我々は、自己を維持しつつ、その時々の自らの解体の限界まで、事物の内奥に接近/接触出来るのだ。我々はそのようにして、自らにとって重要な事物へ、限界まで感覚の手を伸ばす。。。それが触れるという事なのだし、もし我々が自らを解体しきってでもそこに触れようとするなら、それは自らではないものとなってそこに触れる、という事なのだ。その振る舞いは「それに成る」という事なのかもしれない。

それはおそらくは(幾つかの条件が揃うならば)可能であるように思える。しかしそこに触れたとき、あるいは「それに成った」とき、我々は自らでなくなっており、それ故にその出来事を認識できない。。。

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