2020年4月3日 - 80

心について

我々生物が生化学的な沸き立ちなら、心というのは、少なくともその状態を評価する機能全般として、生物の成り立ちとともに形成されてきたものであるように思う。それはもしかしたら、生物の萌芽的な状態からあったのかもしれない。つまり、ホメオスタシス的であったり、それよりもずっと低級とはいえ自己維持作用の働きがあるならば、それの誕生と心の誕生とは同義かもしれない、という事だ。

心はつまり、外部に拠ることなく、自らの状態を自らで評価し、その評価を自らに伝達するための機構の一部だ。それは自己維持のための、もっといえば「沸き立ちの維持のため」の「内的な評価/感受」の機関なのではないだろうか。それがあるからこそ、生体は、あるフィードバックループのなかでバランスを取りながらの自己維持が出来る。これがないならば、生体の動きはもっとパターン化された、いわゆる限界線を超えても単純に動作しようとする様な機械的なものになるだろう。

「沸き立ちの維持」ということならば、個人的には諸々のことに合点がいく。つまり個体を維持するのではなく、死や生や生殖や増殖や成長や誕生や滅びを繰り返しながら、それらをたぐりながら、沸き立ちを維持し続けようとし、その沸き立ちの維持により喜びのような評価/感受を得るような作用が、我々の評価機関/心ならば、我々がなる無数の心模様も、そういったものだろうな、と感じられるという事だ。。。

その意味では、あえて言うならば、心は「沸き立ちの評価機関」であって、沸き立ちそのものではないという事だ。とはいえその2つは不可分であり、どこからが沸き立ちそのもので、どこからが評価機関だ、とはいえないのだろうが。というのも、その評価機関もまた沸き立ちのなかにある沸き立ちの一部であるし、その評価機関も沸き立つであろうからだ。冷静なものなどどこにもない。何もかもが沸き立っているし、沸き立ちの昏さのうちから光に出会っているし、また昏さのうちに還ったり滅びたりしていくのだ。


そしてまたおそらくは、評価機関自身には評価機関は感知できないか、感知しづらい。評価機関が評価出来るものは感知できるものに限られる。ただ感知できるものの空隙や揺らぎや偏りは、それもまた評価され得るものになるだろう。同様に、評価機関自身の空隙や揺らぎや偏りが感知されるもののうちにある場合、それもまた評価されるだろう。いずれにしろ評価機関は、感知され得るものたちよりも、1段階奥にあるのだ。そしてまたおそらく評価機関は、自らがなぜ起動したかを知る訳ではない。ただ沸き立ちのうちで、沸き立ちの一部として、評価をしたり感じたりしているだけなのかもしれない。

個体である事には意味がある。つまり神経系などの感知範囲が身体の範囲までだ、という事だ。そこから先は、示唆や想像の域を出ない。他者の思い、曲がり角の先にあるもの、世界が明日もあること、などなどは皆、示唆や想像による幻に等しいものだ。そしてその幻を「非常に重みづけが高いもの」とした認識のうちに、我々は住まっている。。。といっても熱さや冷たさや痛みだってクレアトゥーラの幻だし、あるいは神経や化学物質による伝達だって「血と肉による多重翻訳」の塊に等しいものだ。我々は多重翻訳されたものにしか、往々にして出会わない。


沸き立ちにはおそらく始まりがある。沸き立ちのモチベーションというか。あるいは沸き立ちをドライブするもの、沸き立ちのドライバというか。沸き立とうとする動きが。沸き立つことに至った動きが。肉体も心も、すべてその沸き立ちのうちにある。何もかも冷静ではなく、穏やかだったり激しかったりしながら沸き立って動いているし、滅びたりする。そして我々は個体という制限のうちで沸き立ちながら、無数のものを探している。

1つは我々の下にある。それは沸き立ちの根だ。もう1つというよりも無数のものは我々の感覚の広がりにある。それは一種の残酷さだったり、断絶だったり、それを超えて幻を伝達させようとする動きだったりというものだ。この動きは多くは失敗に終わるし、そもそも本質的に失敗しかしないのかもしれない。しかしその失敗のうちに、他者の手応えというものが掴まれていく事があるようにも思う。あるいは他者だけでなく、世界の手応えも。断絶や失敗から得られるものの積み重ねが、リーチを深くする、という事があるようにも私は思う。我々は、沸き立ちを維持展開しようとする願望と、それが単純には失敗にしか終わらない(例えば/つまり、多重翻訳を経ない直接的な維持展開などない、というような事)、というジレンマを抱えながら、生や、滅びや、確たる足元の無さに臨んでいる。

我々には実のところ世界は無時間的だ。あちらとこちらが節操なく繋がり、切れ、組み替えられ、また繋がっている。それはシーケンシャルだが順序だってはいない。過去も現在も何もかもがゴタマゼで、何もかもがひょっこりと顔を出す。。。ボケた老人の表現というのは、ある意味ではそこに素直になっているだけなのだ、おそらくは。むしろボケていないとされる人たちの方が、そのシーケンスを意図的に加工して並べ立てているのだ。

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