2020年5月13日 - 80

習作2

習作1を推敲しただけ。良くなったのかダメになったのか分からぬ。。。


1.認識の昏さ

わたしたちは、わたしたちが得られる知識や経験からは、けっしてわたしたち自身を根拠づけられない。これはけっして命題になり得る表現ではないが、経験的には命題に限りなく近いものだ。わたしがこう述べるのは以下の事由による。まず、家を建てるにはその土台に土地がなければならないように、わたしたちが知識や経験を得るために何らかの認識の土台がなければならないのなら、その「知識や経験を得るための土台」は、おそらくわたしたちの知識や経験に先立っている。そしてその土台がまず始めに存在し、それがあるからこそ知識や経験を得ていくのが可能だ、ということなのであれば「知識や経験」の根拠/前提条件はその土台だということになる。そしてここで、もしわたしたちが逆に「知識や経験」に基づいてその土台を根拠づけようとするのであれば、そこには一種の循環論法が発生する。すなわち「『その土台』によって根拠づけられている『知識や経験』によって、さらに『その土台』を根拠付けようとする振る舞い」が発生する。循環論法だからといって全てにおいて悪いわけではないのだろうが、とはいえわたしの意見では、知識や経験に基づいて「その土台」を類推したり類比することはできても、根拠づけはおこなえない。

知識や経験を得ることは、おそらくは「その土台」を前提とした状態のうちに可能になる様態であり、その逆、つまり「知識や経験」があるから「その土台」の存在が可能になっているのではない。そういったところからわたしには、知識や経験を可能にしている土台は知識や経験に先立って、わたしのうちに存在しているように思われるのだ。もちろんこの推論に難点はある。もしわたしが触れられるいちばんはじめの情報、すなわち一次情報が知識や経験であるのなら、これまで語ってきた「土台」はその一次情報から推論できる二次情報だ、ということになる。そうなると、むしろわたしたちにとっては「土台」よりも「知識や経験」の方が先立っているのではないか、ということになる。この推論はもっともだが、ここでひとつ重要だと思えるのは、これら「土台」と「知識や経験」のうちどちらが明確に先かという判断に陥ってはならないということだ。というのもわたしたちが可能な経験には、ある種のグラデーションや階層性があるように思われるからだ。それは明確さではなく、むしろ不明瞭さへとわたしたちを導くものだが、それこそがまっとうな判断であるようにわたしには感じられるのだ。

わたしがここでいうグラデーションや階層性は、少なくともふたつの視点から論じることができるように思える。ひとつは時間的な視点だ。「時間」のような明確に思える言葉は、これから語ることを表すのにはだいぶ不適切なのだが、ここは便宜的につかわせていただきたい。時間的な視点からいえば、わたしたちは「ものごころがつく前のわたしたち」の姿や経験を知らない。わたしたちは幼少のうちから年齢を重ねるなかでおそらく自分自身の姿や経験を意識できず記憶もできないようなおぼろな世界から、徐々に「経験を意識し、また記憶もできる」ような明瞭な世界へ移行していく。そしてわたしたちは、その移行のなかで得た知識や経験によって世界を理解しているつもりになる。そうして年齢を重ねたわたしたちが示す傾向は「後付けで得た知識や経験で組み立てられた世界観」で、おぼろであった世界を説明して、その世界観のうちに取り込んでしまうものだ。しかしその時系列をある種のグラデーションや階層性としてみてとるのなら、そこには「まず初めにおぼろな世界があり」「そこから徐々に明瞭な世界観が形成される」「そこから『おぼろな世界は明瞭な世界観で説明づけられる』という世界観が形成される」という流れがあるように思われる。しかしこれはいい換えるなら、最表層に「おぼろな世界は説明づけられる」という世界観があるのとは逆説的に「いくら表層に明瞭な世界観を形成しても、基底におぼろな世界があることはおそらくは変わらない」こととなる。

もうひとつの視点は身体感覚的な視点だ。わたしは自分自身が「生命活動をおこなえている」「認識活動をおこなえている」ような感覚があるように感じる。そして、その深奥にある感覚は「自身の内的な感覚や内的な世界から『わたし』と呼ばれるものが形成され続けているらしき継続的な感覚」であるようにわたしには感じられる。身体感覚的には、そういった深奥の感覚、つまり内的な体熱の湧出の感覚、鼓動や蠕動などの動的な圧覚や流動感覚、あるいは欠乏感や飢餓感や痛覚や欲求といわれるものがまず芯のようなところにあり、そしてそういった深奥の感覚とつながりながらも、いくぶん表層的なところに外的な触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、あるいは意識といったものがあるような感覚がある。そしてわたしが感じるところでは、この深奥の感覚こそがわたし個人としての、自身の根拠付けの限界になるものであり、そこから先はいくら感じようとしても感知できないような、ある種の「昏さ」が広がるような感覚のものとなっている。ここにもまたグラデーションや階層性がある。それはすなわち、深奥の先の昏さがあり、深奥があり、表層のさまざまな感覚がある、といったものだ。

語りを戻そう。わたしは先に「これら『土台』と『知識や経験』のうちどちらが明確に先かという判断に陥ってはならないということだ。というのもわたしたちが可能な経験には、ある種のグラデーションや階層性があるように思われるからだ。それは明確さではなく、むしろ不明瞭さへとわたしたちを導くものだが、それこそがまっとうな判断であるようにわたしには感じられるのだ」と書いた。そして、これまでに書いてきたような階層性のうち、より深奥にあるものがわたしたちにとっての「真の土台」だとするなら、それは「おぼろな世界」や「昏さ」であろうということとなる。そして判断がそこに至ることで、明証的な表現や明確な決めごとはおそらく不可能となる。あるいは強いていえば「知識や経験を、おそらく可能にするであろう『真の土台』へと至る手前で、感覚の昏さのうちに沈んでしまうような、わたしたちの認識」が、わたしたちの限界なのだ。この限界あるいは不明瞭さこそが、おそらくわたしたちの辿りつける最もまっとうなわたしたち自身の根拠であり、わたしたちの認識が自身の内部へとわたるための最後の橋頭保であるように、わたしには思われる。また補足をすれば、わたしがこれまで「おそらく」と書いてきたのはすべて、明証的な断定をしりぞけ、わたしたち自身の判断や感覚を不明瞭な限界や昏さへとまっとうにひらいていくためである。わたしには、自らの不明瞭さを隠蔽しながら明確な論拠をもちだしてこういったことを語るよりも、実際にありうるように感じられる不明瞭さや昏さに自らの根をおいて語ろうとする態度の方が、誠実であるように思えるのだ。

2.ピュシス

先にわたしは、わたしたちの認識の限界や昏さへと続く最後の橋頭保であろう深奥の感覚を「自身の内的な感覚や内的な世界から『わたし』と呼ばれるものが形成され続けているらしき継続的な感覚」であり「わたし個人としての、自身の根拠付けの限界になると思われる感覚」と語った。これは身体の内的な感覚であるため、もしかしたらわたしは何からの勘違いから、これを過度に重みづけしているのかもしれない。すなわち体内からの発熱、心臓や血管の脈動、諸々の欲求や欠乏感の高まりや低下にともなう興奮や鎮静といった、単なる生理現象を過大評価し、仰々しい言葉で語ろうとしているのかもしれない。しかしながらその生理現象を、第三者の観察的な視点から冷静にみるのではなく、自らの身体的な経験や、あるいは生の体験として生きるのであれば、――同語反復になるが――それは「生理現象」ではなく「生きられる体験」として、当事者としてのわたしのうちで生起してゆく体験、あるいは、わたしのうちに顕れては生滅していく出来事となる。これは強調しておきたいことだが、わたしは出来るかぎり誠実に語りたいと思うし、その意味で出来るかぎり正確に語ることを目指してはいるが、しかしけっして「生理学的見地に基づく身体内部の現象」のような「客観的で、外部からの観察が可能で、再現可能性が高い出来事」を語ることを目指しているわけではないのだ。わたしが語ろうとしているのは、わたしが傍観者や第三者ではなく当事者であるような生であり、生の揺らぎを削ぎ落していない体験だ。揺らぎがある体験や観測は往々にして客観的な語りとはなりづらい。なぜならば、客観的観測の信頼性おいて重要視されがちな「再現可能性」や「外部からの観察可能性」といったものは、定点観測のような「揺らがない観測」あるいは「揺らぎを排除した観測」や、そういった揺るがなさに基づく語りを求めるからだ。しかしながら、わたしたちの生は、往々にして揺らぎや、変化や、変容のうちに生きられている。わたしが語ろうとしているのはそのような、揺らぎを排除していない生の姿であり、その体験なのだ。

こういった視点から「自身の内的な感覚や内的な世界から『わたし』と呼ばれるものが形成され続けているらしき継続的な感覚」を語るならば、それは継続的な形成運動であり、「わたし」と呼ばれるもののうちに湧出し続ける不断で動的な出来事であるように感じられる。それは固定的ではなく流動的であり、継続的だが断続的(例えば眠りにおちているとき『わたし』はその運動から途絶えている)でもあり、いつ始まりいつ終わるのか、わたし自身に分かるようなものでもない。そういった意味で、それはわたしの根拠付けのようなものでありながら、わたしが明確に捉えたり、定義できるようなものではない。わたしは、その運動がいつ始まりいつ終わるのか分からないし、おそらくその湧出を正確に捉えることもできない。にも拘わらず、それがあるからこそ知識や経験(特に外的な経験、外界の経験)を得ることが可能になるというのであれば、わたしの知識や外的経験の根拠は、わたしにとって分かり切れるものにはならない。わたしたちの知識や外的経験は、明確な理解ではなく、むしろ知識や外的経験が最終的にはおよばない運動にひらかれているのだ。この運動をかりにピュシスと呼ぶ。ピュシスとは、もともとはギリシャ語で自然の意であり、対比的な言葉としてノモス(人為的なもの)がある。

これまで語ったことを繰り返すなら、このピュシスという運動は、わたしたちの知識や外的経験、いってみればわたしたちの明晰な認識であったり、そういった認識の構成要素となるものに先だち、わたしたちの内的な経験のうちで、おそらくはわたしたちを形成する運動として湧出し続けており、またそれを明晰に捉えることは難しいものだといえる。しかし同時にピュシスが湧出してゆくことで、あるいはピュシスの湧出の源泉/根源がわたしのうちに存在するであろうことで、わたしたちの生の認識が可能になっていくのだとしたら、ピュシスやその根源は、わたしたちにとって、明晰な認識に先だち、明晰な認識を可能にするものでありながら、最終的には認識のおよばない昏い領域につながる運動や、昏い領域そのものだといえる。そして昏い領域が明晰な認識の前提条件としてあるならば、その明晰な認識は、言明や表出として明晰的であるとしても、その土台は昏いため、けっして明晰になり切れるものではなく、明晰たろうとする努力ができるという限界に踏みとどまることとなるのだ。わたしたちの認識はおそらく、昏いピュシスの湧出から支えられながら、その根底においては昏いまま形成されているのだ。これは最終的な明晰さや確からしさをわたしたちにもたらさないだろう。さらにいえばこれは、わたしたちの認識の無際限さに繋がるものになる。言い換えれば、わたしたちは最終的な明晰さや確からしさがない生を生きているであろうし、また、認識が無際限な姿をとり得る生の可能性を生きているであろうということだ。

3.無際限さ

認識が無際限な姿をとり得る、というのは少なくとも三つの意味による。ひとつはこれまで語ってきたような「認識自身の前提条件の姿が、おそらく最終的には昏い領域のうちにあり分からない」ためだ。条件が不定であれば、そこから先はすべて可能性のうちの話となる。私たちは「『おそらく最終的には昏くとらえがたい前提条件』以外の諸要素」から、世界の姿をえがくこととなる。もちろんピュシスの湧出、外的な体験、得られた知識、そういったものからの推論や推察や直感などから、わたしたちは一定程度に確からしいであろう世界や出来事や事物の素描ができるかもしれない。その意味でこの無際限さは「なんでもあり」とはまた違うようには思える。これがひとつめの意味における無際限さの姿だ。そしてふたつめの意味は「外的な経験、環境、状況に向けられたわたしたちの認識も、また不完全であろう」というところからだ。例えばわたしたちは、目の前にしているものの前面と背面を同時にみることはできず、光がとどかない暗闇のさきをみることはできない。遠くにあるものはふれられず、開けていない箱の中身にもふれられない。あまりにも遠くや、遮蔽物に囲まれたところの音をきくこともできない。同様に、あまりにも遠くや、微弱な匂いを感じることもできない。こういった「観測の精度的限界」がまずある。そしてまたわたしたちは、いまものをみている自分自身の眼球の裏側を、その眼球でみることはできない。何かにふれている自分自身の手を、その手でふれることもできない。こういった「観測機構は観測機構自身を観測できない」という「観測の論理的限界」がある。ちなみにわたしの右手がわたしの左手にふれられるのは、右手と左手のあいだに「空間や時間といわれるような距離」があるからだ。その意味で、真に自らに対して距離のない観測機構に対してしか、上記の論理的限界はあてはまらないのかもしれないのだが。しかしいずれにしろわたしたちはこういった「観測の精度的限界」と「観測の論理的限界」から、わたしたちの外的環境、外的体験の姿を一定程度不定なものとしてしかとらえられない。このふたつめの不定条件からも私たちの認識は無際限になり得る。

みっつめの意味は「次に何が起きるかは、おそらく最終的には分からない」からだ。グレゴリー・ベイトソンが「精神と自然」で述べたように、わたしたちが「次に来る事実を前もって入手できるなどということはけっしてありえない」であろうからだ(といってもこれを「けっして」と断定的に書いたのは、ベイトソンか訳者の間違いなのだろうけれど。なぜなら「次に来る事実を前もって入手」できないであろうというスタンスに立つなら、わたしたちに断定できることなど何ひとつないからだ)。次に開ける扉がどこにつながっているのか、その小路の先に何があるのか、眠って目覚めたあとに世界がどうなっているのか、目の前の人が次にどういった表情を示すのか、といったことは、おそらくわたしたちが前もって知り得ることではないのだ。わたしたちは「それまでのシーケンス」から「次に起こるかもしれないシーケンス」を類推することしかできない。ベイトソンは「知覚による方法にほかならぬ科学には、真実かもしれないことの外在的で可視的なしるしを集め回る以上のことはできない」と述べたが、これは科学だけではなく、わたしたちの知覚経験にもいえることであるように思う。わたしたちは「それまでのシーケンス」や知識や経験から得られる示唆から「次に起こるかもしれないシーケンス」を無数に想像していくものだし、同時にわたしたちは、その想像の可能性群のうちに住まっていると言っても良い。これら三つの意味から、わたしたちは「認識の前提条件、あるいは内的条件の無際限さ」と「外的体験、あるいは外的条件の無際限さ」というふたつの不定条件のはざまで、自分自身の認識を形成し続けているものだといえる。こういった意味で、わたしたちの認識は無際限な姿をとり得るであろうし、わたしたちはそのような生を生きているのだ。

4.ノモス

わたしたちの生はピュシスに連なり、無際限な姿をとり得る認識のうちを生きている。わたしたちの生は、そういった生きられる体験あるいは生きられる世界のうちで、望まれている姿から忌み嫌われる姿まで、とり得るすべての姿や様態をとり得る。そこには美しさや生起や誕生や形成だけでなく、醜さも滅びも死も腐敗もあり得る。「わたし」と呼ばれるものが姿かたちを失って解体していくことも、とくに「これは何々」などと呼ばれることもなかった事物が寄せ集まって「わたし」と呼ばれる姿かたちを形成していくことも、そこでは可能性として否定されていない。それがピュシス的な生、無際限な生の、おそらくは本来の姿である。わたしたちは、あるいはわたしたちの生は、その揺らぎのうちを生きているし、その揺らぎにおいて生滅するすべては、そこにおいて、いってみればピュシス的な領域において、なにも否定されていない。起き得るすべてがそこでは否定されることなく起き得るし、それは無際限さのうちで起き得る。わたしたちの生は、おそらくは本来的にはそのように生きられている。

しかしながらわたしたちは、そういった生を本来的あるいは根源的には生きながらも、往々にして、無際限でもなく昏くもなく湧出的でもないような、定型化された振る舞いをする。例えば規範、基準、名前、挨拶、などなどは、それらを共にもちいる人たちなどの共同体に私たちが属しているから使われるものや振る舞いなのだろうが(もちろん例外はあるが)、それらは一定程度に定型的だ。例えば会話の際には一定程度の共通言語が、議論の際には一定程度の前提条件が、定型的なゲームの際には一定程度の規則がもちいられる。これらがなければ会話や議論や定型的なゲームは、全く成立しないとはいわないにしろ、その成立により多くの労苦を伴うだろう。こういった振る舞いを、ピュシス的な生の姿に対して、ノモス的な振る舞いといおう。ノモスは人為的なものであり、それは、わたしたちが生きるうえでのある種の経済合理性に一定程度合致するため、選ばれている振る舞いだといえる。例えばより恵まれた環境にいられそう、より長く生存できそう、等々。

そのためわたしたちはノモス的な振る舞いを非常に多くもちいる。そしてノモス的振る舞いは一定程度に定型的であり、すなわち一定程度にプロトコル的である。このプロトコルにおいては多くのものは定型的であり、その反転としては当然だが、非定型的ではない。そこには「わたし」や「あなた」や「あれ」や「これ」が一定程度明確に存在し「わたし」が「これこれこのように振る舞う」ことは「こういった意味をもつ」とされる。そこでは「わたし」や「あなた」や「意味」や「生」や「明晰さ」などといったものは、姿かたちを崩し、解体したり、入り混じったり、散ったり、別のものになったり、といったことには往々にしてならない。なぜならそれらはノモス的なプロトコルの構成要素であり、ある種の前提でもあるため、それらが崩れてしまってはノモス的なプロトコル自体が成立しなくなるからだ。そこには願望がある。「わたしたちは往々にして生きなければならず、そのためには一定程度の経済合理性が重要であり、そのためにノモス的プロトコルを維持し続けたい」という願望だ。言い換えればそこには、ピュシスから発したであろう生の願望が、自らの維持存続などを目的化し、自らが発してきた根源であるピュシスの運動を選り好みするような振る舞いがある。ピュシスから発したものが、ピュシス的な振る舞いよりも、ノモス的な振る舞いを選択しがちになる世界がそこにはある。

わたしたちはそういった世界で、あたかも初めから自身がノモス的世界の住人だったように振る舞うことさえする。実際のところ「生」すらもノモス的なプロトコルにのっとった概念かもしれないのだ。生の実態というのは、おそらくは発生や死や解体や増殖や喪失や遭遇や離別と分離できるものではなく、むしろそれらと共にある諸運動の一部であり、トータルで見れば安定した何かではおそらくはない。わたしたちは、わたしたちの認識が届かないような昏い領域あるいは昏さから生じ、一定期間「生」の状態を生存するなどして(そうでない場合も多数あるのだが)、また昏さのうちに解体してゆくが、生の実態とはこの「はじまりとおわりの昏さに挟まれた生存状態/昏さを含めない明るい状態」ではなく「はじまりの昏さとおわりの昏さのうちにある諸運動を含んだ、はじまり昏さからおわりの昏さまでのすべての状態」に起こることであったり、それよりもさらに長い射程をもつものかもしれないのだ。たとえるなら、わたしたち個々は、大きく穏やかな炎のうちのごく小さな揺らめきかもしれないのだが、ノモス的プロトコルにおいては往々にして「まだ小さな揺らめきになってもいないような、大きく穏やかな炎のうちの何か」は「わたしなるもの」の生ではなく、ごく小さな揺らめきとして在る状態だけが「わたしなるもの」の生であるように語られるのだ。そこでは分離/疎外/打ち棄てといわれるようなことが生じ続けている。つまりノモス的なプロトコルからたまたま零れ落ちたり、あるいは人為的に選択されず打ち棄てられたピュシス的な運動は、ノモス的プロトコルの運動のうちから分離しながら、ノモス的には「どこでもない場所」で運動を形成し続けることとなる。

5.コミュニケーション

しかしそうはいっても、おそらくわたしたちは、そもそもその「ノモス的にはどこでもない場所」からやってきたのだし、そしておそらくその「ノモス的にはどこでもない場所」へと解体して還っていくのだ。さらにまた、わたしたちが往々にして「ノモス的な生」を生きているとはいっても、わたしたちはおそらく同時にピュシスへと、すなわち「ノモス的にはどこでもない場所」の運動に自身の根源を繋げながら生きているのだ。そして、何らかの状況によっては、わたしたちはノモス的なプロトコルから離れ、そもそものピュシスのやり方で、事物に触れることが一定程度に可能となる。そういった状況は「ノモス的なプロトコル」が何らかの理由で遠ざかったり解体している。そういった時に、すなわちノモスが遠ざかったり解体していく状況のうちに、あるいはノモスを介してピュシスが垣間みえるときに、コミュニケーションの条件は少なくとも一部整う。コミュニケーションとは、ピュシスのやり方、ピュシスの手触り、ピュシスの論理で、わたしたちが、互いに触れていったり、あるいは何らかのものに触れていくことだ。そこには「ノモスに汲み取られていないもの」が属する世界の手触りがある。

そこではノモス的な生からすれば昏く忌避しがちな出来事、例えば発生、死、解体といった出来事が起きえる。わたしたちがコミュニケーションを行うのは「ノモス的な死」が起きる領域においてなのだ。そこでは昏さを含む領域であり「ノモスにおいて規定されている生の姿」が解体しえる領域だ。しかしそういった領域でなければピュシスはそれがそう作動するように作動しない。わたしたちが、ノモス的には忌避すべきことも起きる領域、すなわち「わたし」や「わたしたち」や「わたしの生」や「わたしたちの生」といったノモスにおいて明にまた暗に、あるいは厳格にまた緩やかに規定されている姿が、解体しえる領域にはいっていくことで、コミュニケーションの可能性は有効になる。そこではコミュニケーションは起きるかもしれないし起きないかもしれない。しかしそれを確実に起こすための明晰な手立ては、そこに行く時には解体して失われている。そういった明晰さや足場のようなものが失われているというのは、とても重要なことだ。

わたしたちに出来るのは、そうやって「明晰さや足場が失われていく領域において、わたしたちが解体しえるような姿になってゆくこと/受け入れてゆくこと」であって「ノモス的な明晰なプロトコルによって『ノモス的にコミュニケーションといわれるもの』を起こすこと」ではない。われわれが解体しえる場に赴き、そこにおけるわれわれの姿を受け入れ、そこにあるものたちが動作するところに居合わせることが、コミュニケーションに関与する条件のひとつであるように思われる。重要なのは、そこにあるものたちの動作の受容であって、動作の規定や定型化ではない。規定や定型化は、ピュシスをノモスに返還してゆく作業であって、それはピュシスを殺したり隠蔽したりするものだからだ。その意味で、そこで重要なのはピュシスの受容であり、ノモスの解体といえるかもしれない。そしてまたそこにあるものたちの動作にわたしたちが居合わせるだけでなく、それらをわたしたちが主体的にまなざし(主体性と昏さは、ある程度わたしたちの解体が進むまでは並立しえるものだろう)、受け入れてゆくならば、少なくともそこには一方向のコミュニケーション経路は生じている。それは、そこにあるものたちから、わたしたちへのピュシス的あるいは「ノモス的ではない」生の手触りの経路だ。もしそういった受け入れが、あちらからとこちらからの双方向で起きているようであるなら、それは双方向的なコミュニケーションが起きているようだといえるのだろう。それがまさに双方向だと確認する術はどこにもないのだろうが。いずれにしろそこでの/そういった生の手触りの伝達は、ノモス的なものが解体しえるような領域、ノモス的な死が起きる領域での出来事だ。わたしたちがその出来事において、昏さや解体を伴う主体のひとつになれるのは「ノモス的なわたしたちにとっての死や解体が起きえる領域」あるいは「ノモスに汲み取られていない領域/どこでもない領域」に、わたしたちが自身が赴いているとき、あるいは少なくともそういった領域とどこかで強く/深く繋がっているときであるように思う。

メモ / 暮らし方


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