2020年5月7日 - 80

習作1

今なら何か書けるか、書き始められる気がするので書いてみる。気のせいかもしれない。たぶんしばらくはぐじゃぐじゃしたものを書いている。


私たちは、知識や(身体の外部の出来事を見たり聞いたりといった)外的な経験からは、けっして私たちを根拠付けられない。これはけっして命題になり得る表現ではないが、経験的には命題に限りなく近いものだ。このことが言えるのは、私たちの知識や経験に先立ち「私たちが知識を得たり、外的な何かを経験したりといったことを可能にしている、そういった『私なるもの』」があるように思えるからだ。もしも、この「私なるもの」がまず始めに存在し、それがあるからこそ、そこに知識や外的な経験がスタックしていくのが可能だ、ということになるのであれば「知識や外的な経験」の前提条件が「私なるもの」であるということになる。しかしここでもし私が今度は逆に「知識や外的な経験」に基づいて「私なるもの」を根拠付けるのであれば、それは一種の循環論法になる。私の意見では、知識や外的な経験は「私なるもの」を類推したり類比することは出来ても、根拠付けは行えない。それはあくまでも「私なるもの」を前提とした状態のうちに可能になる様態であって「知識や外的な経験」があるから「私なるもの」が可能になっているということではないように思える。そういった意味で、知識や外的な経験を可能にしている「私なるもの」は、おそらく知識や外的な経験に先立ち、独自に存在している。

ところでここまで「私なるもの」と書いてきたものは、私なりに言い換えれば「自身の内的な感覚や内的な世界から、私と呼ばれるものが形成され続けているらしきことの継続的な感覚」といえる。これが私個人としての、自身の根拠付けの限界になる。これは身近な例でいえば、眠りからの目覚めのときや、自身の身体感覚や感情に集中したときに感じられるような感覚だといえる。これは継続的な形成運動であり、湧出し続ける動的なイベントであるように感じられる。それは固定的でなく流動的で、継続的だが断続的でもあり(例えば睡眠時に私はそれを感じられない)、いつ始まりいつ終わるのか私に分かるようなものでもない。その意味で、それは私の根拠付けのようなものでありながら、私が明確に定義出来るようなものではない。私は、その運動がいつ始まりいつ終わるのか分からないし、おそらくその湧出を正確に捉えることもできないのだ。にも拘わらず、それがあるからこそ知識や外的な経験が可能であるなら、私の知識や外的な経験の根拠は、私にとっては分かり切れるものではないものだといえる。その意味で、私たちには何一つ分かり切れることはない。私たちの知識や外的な経験は、明確な理解ではなく、むしろ知識のおよばない運動にひらかれているのだ。この運動をかりにピュシスと呼ぶ。

ピュシスはもともとはギリシャ語で自然の意で、対比的な言葉としてノモス(人為的なもの)がある。さてピュシスは、私たちの知識や外的な経験、いってみれば私たちの明晰な認識に先立ち、私たちの内部でおそらくは私たちを形成する運動しており、湧出し続けており、またそれを明晰に捉えることは難しいものといえる。その意味でピュシスは私たちにとって、明晰な認識に先立ち、明晰な認識を可能にするものでありながら、昏いもの、あるいは昏い領域であるともいえる。そして、昏い領域が明晰な認識の前提条件としてあるならば、その明晰な認識は、言明や表出として明晰的であるとしても、その土台は昏いため、その認識もまた明晰ではけっしてないものだと思われる。おそらく私たちの認識は昏いピュシスの湧出から支えられながら、その根底においては昏いまま形成されているのだ。これは最終的な明晰さや確からしさを私たちにもたらさないだろうし、さらにいえば、認識の無際限さに繋がるものと捉えられる。言い換えれば、私たちは最終的な明晰さや確からしさがない生を生きているであろうし、また、認識が無際限な姿をとり得る生を生きているであろうということだ。

認識が無際限な姿をとり得る、というのは2つの意味による。1つはこれまで語ってきたような「前提条件の姿がおそらく最終的には不明である」ためだ。条件が不定であれば、そこから先はすべて可能性のうちの話となる。私たちは「最終的には不明な前提条件以外の諸要素」から、私たちが願望する程度に条件を明確化しようとする。言ってみれば私たちは「不明な前提条件以外の諸要素からの示唆」によって「不明な前提条件」を明確化しようとする。ここで起きるのは類推であり、しかも最終的には確からしさを確認できない類推だ。そのため私たちはそこで「私たち自身にとって、より確からしかったり、より望ましかったり、より示唆され得たりするもの」を類推するだろう。その意味で、そこで取り得る私たちの認識は「何でもあり」とは少し異なる。私たちは「私たちが得られた示唆の列挙」のうちから浮かび上がるものをそこに見出そうとするだろうし、逆に言えば「示唆の列挙から私たちが類推し得る程度」にだけ、この1つめの意味における私たちの認識の姿は無際限なのであろう。さてまた、認識が無際限な姿を取り得るという2つめの意味は「外的な経験に向けられた私たちの認識が不完全であろう」というところからになる。例えば私たちは、目の前にしているものの前面と背面を同時に見ることはできない。光がとどかない先を視ることはできない。いまものを視ている自身の眼球の裏側を視ることはできない(眼球の裏側の話は、観測可能性を語るときに重要なことであろうと思われる)。あまりにも遠くや、遮蔽物に囲まれたところの音をきくことはできない。開けていない箱の中身に触れることはできない。等々。私たちはそこでも「不明な外的条件以外の諸要素からの示唆」によって「不明な外的条件」を明確化しようとするしかない。ここでも先ほどとまったく同じことが言える。すなわち「ここで起きるのは類推であり、しかも最終的には確からしさを確認できない類推であり、私たちは『不明な外的条件以外の諸要素から、私たちが得られた示唆の列挙』のうちから浮かび上がるものをそこに見出そうとするだろう」ということだ。この2つめの不定条件からも私たちの認識は無際限になり得る(というのも「このシーンの次のシーケンスで何が起きるか」などは誰も完全には分からないからだ)。さらにいえば、1つめの「前提条件、あるいは内的条件の無際限さ」と「外的条件の無際限さ」という2つの不定条件のはざまで私たちは自身の認識を形成している。この意味で、私たちの認識は無際限な姿をとり得るであろうし、私たちはそのような生を生きているのであろうと思われる。

そういった生は、ピュシスの運動や昏さに連なっている。しかしながら私たちは、ピュシスを自らのうちに抱えながらも、多くの場合ピュシス的な振る舞いをせずに、定型化された振る舞いをする。これはノモス的な振る舞いといえる。ノモスは人為的なものであり、その意味で文字通りの方便だといえる。それはつまり私たちが生きるうえでのある種の経済合理性に一定程度合致するため、選ばれている振る舞いだといえる。例えば規範、基準、名前、声掛け、などなどは、それらを共にもちいる人たちなどの共同体に私たちが属しているから使われるものや振る舞いだといえる(もちろん例外はあるが)。例えば会話の際には一定程度の共通言語が、議論の際には一定程度の前提条件が、定型的なゲームの際には一定程度の規則がもちいられる。これらがなければ会話や議論や定型的なゲームは、全く成立しないとはいわないにしろ、その成立により多くの労苦を伴うだろう。そのため私たちはノモス的な振る舞いを非常に多くもちいる。そしてノモスにはプロトコルが生じ得るし、いったん成立したノモス的プロトコルは一定程度受容され、使われる。例えば挨拶をしたら挨拶をかえす、などといった事がそれだ。このプロトコルにおいては多くのものは定型的であり、その反転としては当然だが、非定型的ではない。そこには「私」や「あなた」や「あれ」や「これ」が一定程度明確に存在し「私」が「これこれこのように振る舞う」ことは「こういった意味をもつ」とされる。「私」や「あなた」や「意味」や「生」や「明晰さ」などといったものは、そこで姿かたちを崩し、解体し、入り混じったり、散ったり、別のものになったり、といったことにはならない。なぜならそれらが崩れてしまっては、ノモス的なプロトコル自体が成立しなくなるからだ。私たちは往々にして生きなければならない、そのためには一定程度の利便性が重要だ、そのためにはノモス的プロトコルを破壊することは避けた方が良い、そういった願望がそこにはある。言い換えればそこには、ピュシスから発したであろう生の願望が、自らの維持存続などを目的化し、生が発してきた根源であるピュシスの運動を選り好みするような振る舞いがある。ピュシスから発したものが、ピュシス的な振る舞いよりも、ノモス的な振る舞いを選択しがちになる世界がそこにはある。

私たちはそういった世界で、あたかも初めから自身がノモス的世界の住人だったように振る舞うことさえする。実際のところ「生」すらもノモス的なプロトコルにのっとった概念かもしれないのだ。生の実態というのは、おそらくは発生や死や解体や増殖や喪失や遭遇や離別と分離できるものではなく、むしろそれらと共にある諸運動の一部であり、トータルで見れば安定した何かではけっしてない。私たちは、私たちの認識が届かないようなある種の闇や昏さから生じ、一定期間「生」の状態を生存するなどして(そうでない場合も多数あるのだが)、また闇や昏さのうちに解体して帰還してゆくが、生の実態とはこの「昏さに挟まれた生存期間」ではなく「昏さのうちにある諸運動を含んだ、始まりの昏さから、解体の昏さまでのトータルの期間」に起こることであったり、それよりもさらに長い期間をもつものかもしれないのだ。たとえるなら、私たち個々は、大きく穏やかな炎のうちのごく小さな揺らめきかもしれないのだが、ノモス的な振る舞いにおいては、往々にしてそのごく小さな揺らめきとして在る状態だけが「私なるもの」の生であるように語られるようなことだといえる。そうであるならば、そこには分離が生じる。つまりノモス的なプロトコルから零れ落ちたり、あるいは選択的に打ち棄てられたピュシス的な運動は、ノモス的なプロトコルの運動のうちから分離しながら、ノモス的には「どこでもない場所」で運動を形成し続けることとなる。

しかしそうはいっても、おそらく私たちは、そもそもその「ノモス的にはどこでもない場所」から形成されやってきたのだし、私たちが「ノモス的な生」を生きているとはいっても、私たちは常にその場所の運動に内奥を繋げながら生きているのだ。そしてまた何らかの状況によっては、私たちはノモス的なプロトコルから離れ、そもそものピュシスのやり方で、事物に触れることが可能となる。そういった状況は「ノモス的なプロトコルを優先する理由」というのが何らかの理由で遠ざかったり解体したりした場合が多いように思われる。これはノモスを現世と言い換えるなら、たとえば現世的な価値観で生きる必要がなくなったときや、現世的な価値観から離れて生きていられるシーンやシーケンスがたまたま生じたとき、といえるかもしれない。そういった時に、コミュニケーションの条件は一部整う。コミュニケーションとは、ピュシスのやり方、ピュシスの手触り、ピュシスの論理で、私たちが互いに触れ合えたり、あるいは何らかのものに触れられることだ。そこには「ノモス的な死」「ノモスに汲み取られていないもの」が属する世界の手触りがある。

極論すればピュシス的なコミュニケーションのうちでは、ノモス的なプロトコルのうちで幾つかあるいは無数に分離していたものが、ノモス的なプロトコルであったり基準を失うことで「ノモス的な個別性」を失い、そして「ノモス的な個々のもの」ではなく「ピュシス的な諸々のもの」としてピュシス的な諸運動のうちに還元されていっている。それは現世の基準、すなわちノモス的なプロトコルを必要としない。そこでは「現世的な基準を介しては互いに届かなかったもの」が互いに届くような可能性が発生している。私たちはそこで、ピュシス的なものとして触れ合うことが可能となる。それは昏さを根にもつもの同士の、互いの昏さからの互いの昏さへの触れ合いであり、いわゆる「生」あるいは「ノモス的な生」からすれば「発生や死や解体などなどといった領域」を根にもつもの同士がそういった領域から触れ合うものだといえる。

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