■ネゲントロピーについて ・生命は固定的なものではなく、流動性の中で自ら(という「ある境界面よりも内側の現象群」)を維持形成し続けるもの。 ・生命とは、外部と繋がり、外部と自己とで熱を交換し続けなければ、自己を維持できな […]
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習作1を推敲しただけ。良くなったのかダメになったのか分からぬ。。。 1.認識の昏さ わたしたちは、わたしたちが得られる知識や経験からは、けっしてわたしたち自身を根拠づけられない。これはけっして命題になり得る表現ではないが […]
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今なら何か書けるか、書き始められる気がするので書いてみる。気のせいかもしれない。たぶんしばらくはぐじゃぐじゃしたものを書いている。 私たちは、知識や(身体の外部の出来事を見たり聞いたりといった)外的な経験からは、けっして […]
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死は、私たちを消去する。死は、認識の死なのだが、それだけでなく、認識が生起してきた昏さのうちの一定領域の死でもある。それはつまり、我々なるもの/私なるものの認識が、二度と再び生起してこないであろうことを告げるものだ。。。 […]
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すべての事柄のなかで、おそらく最も重要なことの1つはアクセシビリティだ。それは何らかのものへのアクセスが可能だという事だ。あるいは何らかのものへのアクセスが閉ざされていないという事だ。 その何らかのものは何でも良いのだが […]
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■Sさんとの会話から抜粋 俺らの認識は「無際限かもしれないもの」に臨んでいるけれど、とりあえず得られた感覚情報を元に、あれやこれやを推測しながら「限界はこれくらいだろう」「区分け部分はこれくらいだろう」と見なして動作しよ […]
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私たちには感覚がある。見たり聞いたり触れたりできるものだ。感覚器というのは強烈なもので、例えば目がひらけば、視覚情報がいちどきに押し寄せる。同様に、耳があけば、聴覚情報がいちどきに押し寄せるのだろう。 そのとき、情報はま […]
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Wikiによると公理とは、 公理(こうり、英: axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(英 […]
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結局、我々が望んでいるのはある種の変換に他ならないのかもしれない。 光エネルギーをエネルギー源として、光合成が行われ、植物が活動する。そこから、あるは地熱やあれやこれやの物理的エネルギーを源として、生化学的エネルギーを生 […]
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身体が損傷しても意識はある程度までは明瞭だ。2つは別のもののようだ。という印象について、自分は以下のような事を思うところがある。 浴槽に水(A)をはり、そのうえに洗い桶を浮かべる。洗い桶には少し水(B)を入れておく。ここ […]
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