2020年4月13日 - 80

アクセシビリティについて その2

私たちの根とは「知覚や感覚以前の自らの状態」だ。あるいは「知覚形成や感覚形成以前の自らの状態」といっても良い。これが発生の領域であり、解体の領域でもある。知覚や感覚が形成される以前の状態なのだから、その状態は知覚や感覚が出来ない。にもかかわらず、我々の知覚や感覚が無からいきなり生じたのでないならば、そういった状態がある、と推定すべきであるように私は思う。

その状態へのアクセシビリティこそが、我々から、我々の根へのアクセシビリティだ、と言ってよい。我々は世界を感知し得る姿になる以前の、まだ何ものでもない不定の昏い領域から顕れた/訪れたし、その領域へとかえっていくのだ。そしてその領域へのアクセシビリティを失わない姿における我々の認識は、同語反復的だが「我々の根へのアクセシビリティを失わない姿における、我々の認識」となる。

我々の知覚や感覚から零れ落ちるものが、そもそも我々の知覚や感覚の基底としてあり、そもそも我々はそこから顕れたものであろう事。我々の認識には、知覚や感覚にのぼりえない昏い領域があるであろう事。こういったものを推定している事は、我々の認識のうちに「精度的」ではなく「原理的な」不完全さ、影、昏さ、などなどを読み取る事となる。それは我々の知覚や感覚を底としたいかなる言葉や表現も、「原理的な」不完全さ、影、昏さ、などなどをそのうちに示す、という話になるという事だ。。。

完全に明確な言葉や表現は望みえず、我々の表現は常に、我々の知覚や感覚自身の原理的な昏さから逃れ得ない。逆に言えば、我々は「完全な明確さのうちに閉ざされる事」はおそらくけっしてなく、我々の伝達行為は、常に自らの原理的な昏さ/不完全な明確さのうちにありながら、なおそれでも何がしかを出来る限り直截に伝達しよう、という試みになる、という事だ。

この意味で、我々のコミュニケーションは(少なくともメタレベルでは)つねに完全性から疎外されており、つねに試み的にならざるを得ない。私としてはだが、これは素晴らしい事だ。なぜなら、我々が、生の昏さを土台としながらなお、ある種の明確な伝達性を望むのなら、そこには常に伝達先へのアクセシビリティの希求が発生し得るのだから。いってみれば、我々が完全な伝達を希求する限り、我々は常に憧れたり愛そうとしたりするものでいられるのだから。そして、真に重要なのはおそらく完全な伝達ではなく、憧れたり愛そうとしたりする事それ自体なのだろうから。

これは、我々に、ある種の完全性への欲望がある限り、我々は、憧れたり愛そうとしたりするものでいられる可能性がある、という話だ。そしておそらく、我々にはある種の完全性への欲望がある。。。(それはマッチポンプなのだろうか、それとも違うのだろうか。それは一つには死の領域/解体の領域への憧れでもあるし、一つには展開への憧れでもあるようなイメージはある。。。それらと新しさ。)

そして、いずれにしろ何もかもが幻のうち、夢のうち、無時間的な体験のうちのもののようだ。我々の経験は、我々の経験可能な様式(感覚可能範囲、無時間性、シーケンス性など)に、一定程度の部分を依存しているのだ。我々の物理的な姿という意味ではなく、我々の認識の様態という意味で、我々は、不定形で、昏さのうちに消え去る事と繋がっている化け物なのだ。認識からすれば、物理的な姿と言うのは、その化け物的な姿のうえに張り付いた表皮に過ぎない。。。

メモ


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