2020年4月12日 - 80

アクセシビリティについて

すべての事柄のなかで、おそらく最も重要なことの1つはアクセシビリティだ。それは何らかのものへのアクセスが可能だという事だ。あるいは何らかのものへのアクセスが閉ざされていないという事だ。

その何らかのものは何でも良いのだが、例えば私にとっては、生命性や生命感の根底などが重要なものの1つなので、それへのアクセシビリティがある、という事は、それらと同様に重要なことだ。あるいは生命性と、生命性へのアクセシビリティとは、ある意味では同一のものであると言っても良いのかもしれない。。。

そして重要な事は、完全なアクセスが現時点で可能な事ではない。むしろ事物によっては、特定の条件下でしか完全なアクセスは出来ないかもしれない、例えば死。重要なことはむしろ「アクセシビリティが閉ざされていない」ことなのだ。何らかのものへのアクセス可能性がどこかしらにある事。その道が閉ざされていない事。それこそが重要な事だ。

だから、何らかのものへのアクセス可能性を閉ざすもの、閉ざすあり方、閉ざすやり方というのは、それがどれ程きらびやかで良いものに見えたとしても、やはり選んではならないものなのだと思う。それを選ぶことは、自身の可能性を、きらびやかさや良さと交換に閉ざしてしまう事なのだ。少なくとも私はそれを良しとは思えない。。。例えば箱庭/プラットフォーム、あるいは公理を底としているように見せかけられた形式言語。。。

逆にいえば、何らかのものへのアクセス可能性を残し、それを閉ざすものを解体して、道筋をみせるもの、あり方、やり方というのは、私にとっては価値のあるものだ。少なくとも仕事において、私は、そのような道筋を残したり、作ったり、強めたりする事をしたい。それが私の仕事の一つの意義であり、私にとっての仕事の一つの意義なのだ。完全な自由である事、ではなく、選択を重ねれば、閉ざされずに望んだ何かに到達でき得るという事。それを維持し展開する事、望まれ得る何かに繋がるルートを確保する事が、私の仕事の一つの骨子なのだ。もちろんここには注釈や補足は必要なのだろうが、それはそれとして今は書かない。まずは骨子を書くことが重要だからだ。

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