2020年6月24日 - 80

ネゲントロピーについて、生命について

■ネゲントロピーについて

・生命は固定的なものではなく、流動性の中で自ら(という「ある境界面よりも内側の現象群」)を維持形成し続けるもの。
・生命とは、外部と繋がり、外部と自己とで熱を交換し続けなければ、自己を維持できないもの。
・生命は外部から使えるカタチの熱を取り込んで自らのうちに秩序を形成し続け、使えるカタチでなくなってしまった熱を外部に排出している。これを「生きている」という。
・生命が外部との熱交換をこれ以上一切出来なくなり、自らのうちに秩序を形成し続けられなくなった状態を「死」という。
・死の状態に至ると、生命は腐敗し分解され、ある意味でのエントロピーを増大させながら解体してゆく。
・われわれは『生という状態』を、傍観者として外側から眺めているのではなく、当事者として内側から生きている。

■生命について

生命は、生命という運動への愛や執着で動いているのだ。その結果食べたり殺したり殖えたりしていくのだ。太陽は熱であり過酷さだが、ないと生きられないものだ。我々はその炎に焼かれながら生きているのだ。それはエネルギーの取り出し口ではあるが、しかし過酷さ以外の何かなのだろうか。我々は過酷さのなかで運動をつないでいるのだ。新しさもそこには含まれるのだろう。繁茂とはまさに、エネルギー摂取と増殖への執着の結果なのだ。そこには運動がある。バタイユが消尽と呼んだような、一見柔らかく、そして破壊的で増殖的で無為で豊かともいえる運動がある。それはある種のフラクタル(同形反復)なのだ。形式のフラクタルではなく、運動のフラクタル。カタチのフラクタルではなく、動きのフラクタル。カタチを生み出す動きではなく、動きを生み出す動き。運動を生み出す運動。その運動のなかには、死も織りたたまれている。それは消尽かもしれないしそうじゃないかもしれない。生命はいわば、炎から生み出された、炎を食べる炎なのだ。

コミュニケーションとは、ある面では、個体の限界性への関与なのかもしれない。極端な話としては、限界性に対して、限界性で応えること。

生命は、自ら燃えようとする燃料のようなものだ(問題は、燃えずに食われる事だ。これは本当に面白くない)。それは別の炎/燃料とくっついたり離れたりもする。それは維持したり変化したりしながら、パターンを生成する古いパターンとして振る舞いたがっているようにも思える。その振る舞いはそれが壊れることでもある。

我々は死から生まれたのだ。

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