2020年4月16日 - 80

アクセシビリティについて その4

1つには、真の身体とはいっても、それは特別なものではなく、おそらくは、1つのシステム(こういう用語で良いのか分からないが、例えばシステミックな、自己創発的な)であり、あるいは自己組織化的な振る舞いもするシステムの「根のようなシステム」である、というだけなのではないかと思える。

それはヒトのように(ほとんどの場合は)母体から生まれるものもあるだろうが、植物の種のように、発芽自体は(多くの場合は)土の内部で行われるものもあるのだろう。いずれにしろそれらは「独立した、自己創発的な/システミックな/自己組織化システムの根となるような、システム」であって、それだけなのだ、という話なのかもしれない。

それはもしかしたら孤独なのかもしれない。とはいえなぜ孤独なのかという事が語られなければ、それはあやふやな言い方に過ぎないだろう。しかし逆に「そういったシステムにとっての孤独」とは何なのだろうか。例えば存在不安のようなものなのだろうか。あるいは自らの根が、自己創発的ではない世界/死、に繋がっているであろう事への不安のようなものなのだろうか。あるいは逆に、自己創発的な世界から生起してしまった事への不安なのだろうか。そもそも不安を並べ立てているが、これらは孤独であるという事なのだろうか。

そしてまた、そういったシステムにとってのコミュニケーション、とはどうったものがあり得るのだろうか。あるいはまた、そこで自己維持的な欲望と、コミュニケーション的な欲望が、ある意味では相反する事を、そういったシステムはどのように捉えるのだろうか。例えば餓鬼のような業だと捉えるのだろうか。

あるいはまた「人間、一皮むけば獣のような」といった表現があるが、おそらく我々の皮をむいたところにあるのは獣ですらなく、不定形で(無時間的で連想的/連鎖的で)顔のない認識の姿であり、またその認識をさらに基底から動かす無数の/幾つかの欲望群ではないのだろうか。その欲望は、死/プレローマが背後にあること基底とした、不安の熱を帯びたような活動(例えば生じたり崩れたり、混ざったり分離したり、得たり失ったりするような活動)かもしれないし、そうではないかもしれない。ところでまた、生命の背後/基底にはある意味では何もないか、死/プレローマしかない(かもしれない)のだ。熱はプレローマにもあるだろう。しかし熱さは生にしかないのだ。それは生の幻なのだから。いずれにしろ、真の身体はそういった世界を生きているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

ただそいった世界を生きているのなら、不定形な我々(の認識)が背後にしているのもまた、不定形な死/崩壊である、という事であるのかもしれない。そうである時、その2つの不定形さを区切る力線は、ただ生命の自己組織化性の熱による、というだけなのかもしれない。我々は崩壊を背後にしながら、生の熱さのうちに(不定形な)姿形をとっているのかもしれないのだ※1。

※1:そしてそうであるならば、我々は、不定形な姿形のうちにある(自己創発的あるいは自己組織化的で)システミックな運動(例えば存続、維持、摂取、増殖、混淆)と、ヒトとしての姿形における経済性や文化性とのあいだに、一種のコンフリクトを持ちながら活動しているという話だ。あるいはもっと言えばこれは、自己創発性と自己組織化性のあいだのコンフリクトかもしれない。それはつまり、発生や増殖におけるシステミックな要望と、維持におけるシステミックな要望とのあいだのコンフリクトでもある。ある意味では何もかもが、欲望と経済性と投企のうちにある。そしてまた経済性に基づく要望の成就の遅延こそが、コミュニケーションの消失のはじまりなのだ。


膜につつまれた何か、というのは一つのキーだ。そこには圧力が存在する。圧力が高まれば膜は破れるし、低くなればしぼむ。その圧力を保ち、膜を破らないように生きようとしているのが生命だ。膜は限界でもあり境界でもある。膜が破れた時、そこには限界も境界もなくなるが、同時に生命も消失する。

私たちは膜につつまれた何かとして生じ、膨れたり萎んだりしながら自らを維持しようとあがき、場合によっては増殖しようとあれこれし、しまいに崩れて死んでいく。膜につつまれた何かとしての私たちがどのように生じたのかを、膜のうちの昏さのうちに知る事は出来ない。私たちはそこから発生し、やってきたであろうけれど、私たちの知覚はそこに届き得ない。ただ昏さがある事を知る事は出来る。その昏さに奥行きがある事も知る事は出来る。それが私たちの限界だし、その昏さと奥行きの根からこそ私たちが生じた事を(ある意味では)信頼出来る事は、ある種の良さでもあるのだと私は思う。なぜなら、私が、私の知りえないものの動きのうちから生じたという事は、私が全ての決め事の起点などである必要もなく、その権利もなく、その意味で、私が私のうちに閉じて完結したものになる事はけしてないであろうからだ。私が死にも昏さ(自らのうちの昏さだけでなく、例えば感覚や知覚における昏さ、関係性における昏さ)にも開かれているであろう事は、生が自らの生のうちに閉ざされていないという意味で、生にとっては一つの救いでもあるように私は思う。

そしていずれにしろ、コミュニケーションというのは、その昏さへの投げかけと応答のうちに姿をとりえるものだ。それは、自らの生から離れて、昏さのうちに自らを投げ込む事、に対する応答のうちに姿をとりえる。この応答が得られるかどうかの保証はない。保証があるならば、それは閉ざされており開かれていない(その意味で、開かれたところへの投げ込みというのは常に恐ろしいものだ。それはいつだって、底がないかもしれない暗闇に自らを投げ込むようなものだ)。錨をつけずに行われる、昏さへの、自ら自身や、声や身振り手振りの投げ込み、と、それへの応答だからこそ、そこに形成されるものはコミュニケーションになり得るように私は思う。


ある意味では、私たちは生命のスープから生じたのだろうし、それは(膜が形成されていない、ただの内容物のスープという意味で)膜の限界も境界も越えている。フロイトではないが、これが我々にとっての本質的な若さであり幼さであり反復を望まれるものではないかと思う。そしてそれは辿り着けないのだが。というのも、死は、内容物のスープに我々を還すのではなく、内容物だったものが腐敗したスープに我々を還すだけだからだ(それはそれとして生態系のうちで循環し、再び内容物のスープになる事もあるのだろうが)。死からは私たちは発生しない。私たちが発生可能なスープから、私たちは発生したのだ。それは還れないし、おそらく辿り着けない。もちろん疑似的に還ったり辿り着いたりすることは出来るのだろう。あるいはその限界まで至る事も出来るのだろう。それは例えば性的な出来事だろうし、あるいは性的でないにしろ、発生や増殖と、そして小さな死に類する事だろう。


だからある意味では、コミュニケーションは、死に近づく行為になる。これは正確には、死に近づくというよりも、生の限界や境界に近づくという出来事なのだろうが。そこの方が、生の手触りがはっきりするのだ(自分の、あるいは何かの、あるいは相手の、あるいは無数のものの生の手触りが)。そういったところで触れられる何か、あるいは相手、というものが、一つのコミュニケーションの成就であったり、成就の結果だという事になるのだろう。だからその意味で、コミュニケーションは危うい事でもある。それは生の境界や限界に近づき、そこをオーバーシュートするような出来事に出会う事もあり得るかもしれないからだ。そこから帰還出来れば良し、さもなくば生は、姿かたちをなくして解体され得るのだろう。

これは極端な話かもしれない。もっと穏当な話もあるだろう。それは例えば、安全圏から出て行われる行為だ。少なくとも安全圏のうちにいる事を実は望むのなら、事象が顕わになったり剥き出しになったりしながら解体が起き得る関係に臨まないのなら、その者とは、誰もコミュニケーション出来ない。そしてまた、小さな解体とそこでの遭遇の成就、そしてそこからの(たまたまの結果としての)再構築/新構築というのが、我々が、コミュニケーションという一種の危機を通して、反復できる(生きたままでの)生の姿の一つの限界であるのかもしれない。


人文科学的な価値観というのはある意味では重要ではなく、あるシステムが限界、境界、発生の根、混淆状態、などなどの「解体的な領域」に近づいたりそこに至ったりして、自らの状態が変容していく過程に遭遇する、という事が語られればそれで良い気がする。という事を、バタイユとかを読んで思ったりする。例えばバタイユは「動物は水が水のなかにいるように存在しているが、人間はそうではない」というような事を語るが、私にはそうは思えない。細菌が発生したり増殖したり死んだりしていくなかで細菌の生がシステム的に遭遇し体験する事と、ヒトが発生したり生殖したり死んだりしていくなかでヒトの生がシステム的に遭遇し体験する事とで、私には本質的な違いは全くないように思える(付帯条件としての違いは無数にあるとは思うが)。

例えば文化ごとに異なる「隠されたものに至ろうとする」のような話も、隠蔽や侵犯に伴う、システム単体の、あるいはシステム同士の、状態や関係性の変化が問題なのであって、そこには文化ごとの差異がどうこうとか、人間の持つ文化だからどうこうとか、そういう話は一切関係ないように思う。もちろん文化的意識があるからこその差異は、付帯条件としてあるだろう。例えば死は生から(どちらかといえば)遠いと捉えている現代の私たちのような文化的意識と、(これを文化的意識と呼ぶかはともかく)生も死もひとつのシステムの姿の断片でしかないという世界に生きている原初的な生命の在りようとでは、隠蔽や侵犯の意味も変わるだろう。こういう言い方をするなら、前者の捉え方のうちには死的な世界への隠蔽も侵犯も起き得るが、後者的な捉え方のうちではそもそも生も死もひとつのシステムのなかのないまぜな断片なのだからそこには隠蔽も侵犯も発生しない。もちろんとはいえ、生を志向する運動においては、やはりどこか死は遠ざけられるものであるように思うし、その意味で、原初的な生命の在りようのうちにも、死を遠ざけ隠蔽する動きがあるようにも思うが。

ところでまた重要なのは「何かに至る」事ではなく「解体の限界や境界に至る」事や、その過程において、システムが遭遇し体験する状態や関係性であるように思う。その意味では、暫定的に指標とされる「何か」は、極論何だって良いのだ。とはいえ「その指標がある」「その指標があり、かつそれを(ある意味で)信頼できそうだ」「その指標があり、かつそれを(ある意味で)信頼できそうであり、かつ解体の限界に至ったり超えたりしてもなおそれは信頼できるものだった」などの話のうちでは、やはりその「何か」があるのかないのか、そしてあるとしたらどういったものなのか、というのは極めて重要なのだろうと思うが。浅はかな理解や浅はかな言い方かもしれないが、上記のような「その指標があり、かつそれを(ある意味で)信頼できそうであり、かつ解体の限界に至ったり超えたりしてもなおそれは信頼できるものだった」というの「何か」こそが、本質的な意味でコミュニケーションし得る他者である、という風にいって良いように思う。そうでない他者はプロトコルは交わせても、上記のようなコミュニケーションは成立しない他者だ、といっても良いのかもしれない(これもまた極論なのだろうが)。

また、この辺りからひとつの疑義がある。それは「死に至るまで生を称揚すること」は、本当に生を称揚しているのか、という事だ。エロティシズムは重要なのだろう。連続性も極めて重要なのだろう。しかしそれはある意味では「生という『システムの全体性』」の称揚ではなく「快楽を伴いながら、解体の限界や境界に、直接的間接的に至るような、生の『部分的なパラメータの突出状態』」の称揚であるようにも感じられる(このパラメータ云々の言い方は、バタイユのいうエロティシズムをそれなりに矮小にしているのだろうが)。個人的には、バタイユ的なエロティシズムの定義(らしきもの)には、新しさについての語りと、発生の根についての語りの、少なくとも二つの語りが欠け落ちているようにも思われる(後者はあるのかもしれない、あるいは部分的にあるのかもしれない)。

これらふたつはもしかしたら、エロティシズム的なものと同等か、あるいは(より基底的かもしれないという意味で)それ以上に重要なものかもしれないのだ、と個人的には感じるところがある。エロティシズムが、ある意味では、生命のうちの生命的な快楽に飲み込まれるような面があるのに対して、新しさと発生は、生命が異質さに臨むそのときの姿のうちに生じ得るように思えるからだ。あるいは連続性ではなく、不連続性の姿が示す断絶のうちに生きているという事が、ある意味では連続性と同等に重要かもしれないからだ。我々が不連続であり、死んで滅び、そこに存在から無くなるという事は、ある意味では素晴らしい事なのだ。喪失や消失や断絶こそが新しさの手引きになるからだ。

異質さに臨むこと(あるいは異質さに臨みながら自己形成/発生していくこと)や、不連続であり断絶されているからこそ世界がそれなりに絶望的で鮮やかである事は、ある意味では生命の特質だ。その特質のうちに/部分に/要素に、快楽もあるのだろう。しかしその特質がなければ快楽がなかったとするなら、その特質の生成は、快楽の生成に先立つし、その意味でより低レイヤーなものになるはずだ。この辺りの話があっているのかは今の俺には分からない。間違っているかもしれないし、もっと入り組んでいるかもしれない。。。しかしいずれにしろ、異質さ/気持ち悪さ、というのは、ひとつの極めて重要なものだ。。。

ところで連続性と不連続性についてはこう捉える事も出来る、すなわち私たちは「本来的には形を成していないのだ」と。私たちの本質は生存と増殖の運動でありそこで感じられる諸感情であり、それを最大限に感じたり開放する事が重要であり、今とりえている姿はただの暫定的なものであって、運動の発現こそが重要なのだ、と。またところで、連続性に関する話はひとつの物語だ。そして、物語を失っても生きざるを得ない生/生き得る生というものもあり得る。そういった生もまた、ひとつの良さであるように思う。少なくともそれは幾分か爽やかであるように思う。そしてまたところで、バタイユが書いた「創造的な死」というのは、コミュニケーションのひとつの本質であるのかもしれない。。。


陰りのない言葉、陰りを見せない言葉は良くない。その言葉は、陰りのある我々が、我々の語りを語るのに妥当な言葉ではない。私はそのように思う。陰りのある我々が、陰りを見せない言葉で語るのは、メタレベルでの言行不一致の矛盾にあたるものだ。。。

メモ / 日々


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