2020年2月3日 - 80

ダックタイピングについて

ここにあるのはすべて、意味情報の束、あるいは意味情報に収斂し損ねている情報の束だ。ある意味情報「A」かもしれない情報の束(Aを強く示唆する情報の重なり)は、実際「A」なのかもしれない。そこでは我々は「Aのように見えるものは、おそらくAなのだ」という想定から入る事が「最も確度が高い」想定となる。

Aかもしれない情報の束、Aに収束するかもしれない情報の束というのは、無数の姿がある。きらめきや照り返し、奥行きや陰、色味やつや、背後の感覚、サイズ、曲線性や直線性、あるいは音、残響、響きの速さや遅さ、匂い、匂いの深さや浅さ。。。などなど。。。

そういった無数の情報/感覚刺激の束が、これはAかもしれない、という想起を我々にさせる。。。我々はその情報の束/感覚刺激の束を、Aなるものとして捉え、それに働きかけたり、避けたり、入っていったりする。

そしてまた、はじめからAなるものがあるわけではない、そこここにあるのは、AやBなどの名称/収斂先がとりたててあるわけではないような情報/感覚刺激なのだ。そこには姿かたち、シーケンス、動き、奥行き、構造らしきものなどがある。我々はそのようななかに投げ出されている。そして自分のうちの、最終的には捉えがたい欲動から、そこの事物へと動作をしている。。。

そして事物には名前はない。事物とは「超硬い金属の細い棒(しかも先端が鋭く尖っている)を打ち付ける部分と、握るにちょうどよいサイズの部分がある、超硬い金属の棒(ここにあるのは粗く言えば形容詞や動詞ばかりだし、我々はそもそもそのような世界に住んでいるのだ)」のようなものであって「(釘を打ち付ける)ハンマー」ではないのだ。あるいは名づけとは、そういった事物の属性群に対しての「呼称というまた別の属性」を加える事であって、それをやったからと言って、事物がどうなる(例えば事物と事物とのあいだに目に見えるような区切り線が魔法のように引かれ、その線の内側だけが「それ」になる)というものでもないのだ。名づけをしても、事物の織物の姿、事物の奥行きの姿は、おそらくなんら変わりはしない。ただその名というラベルに安心した我々が、事物をそれ以上見なくなるだけだ。。。(我々の認識の作りがそういった「カテゴライズ」「ブロック化」「ゲシュタルト化」をそもそも好むのかもしれないが)

メモ


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