2017年8月13日 - 80

メモ:プレローマ(生なき世界)の科学について

俺は、世界はゲームではない、という前提のようなところにいる。これは前提ではなく、思い入れのようなものだ(というかこれを前提とし出すと言行不一致の矛盾になる※1)。そしてここからすると、自然的な事物を記号で表象し、かつ「その記号を閉じた規則の系(要するに閉じたゲーム)として組み上げ」「それによって自然的な事物を『説明する』」という事は出来たものではない(もちろんそれは仮のものでしかない、という事なら一応俺も受け入れられる)。

※1:「世界はゲームではない」と書くときに句点をつけないのも意図的にやっている。些細かもしれないが、句点を付けて言い切りの形にしたくないからだ。

しかし物理のようなタイプの科学は、(数理などをその基礎として援用するなどして)そういった事をやって、そしてその様に表現された世界が実際の世界だと捉えているように見える。プレローマの取り扱いってやつだ。

ところで仮にそういったタイプの科学を扱う者が、そのような閉じたゲームで説明できるから、世界は数理的あるいは物理的である、と主張するとしよう。それで、話を挿げ替えるようだが、本当にそのような閉じたゲーム、閉じた論理、閉じた公理、等々は成り立つのだろうか、という疑問がある。

それは、閉じた公理を想像している者は、閉じたシステムにいるのだろうか、という疑問だ。もしその者が開いたシステムにあってその公理を想像しているのならば、その公理系は、実は(というか一つ上の視点からみれば)開いたシステム(の部分)として形成されているのではないのか※2。そうなると「その(閉じた)公理」で「説明」出来る「閉じた系」というのは本当に成り立っているのだろうか。

※2:もうちょっと俺の疑問を簡単にいえば「閉じた論理について考えている者は、その閉じた論理の系の中にいるとは限らない、のではないのか??むしろその者は開いた系のうちにあって、その閉じた論理について考えているのではないのか??それならばトータルで、その閉じた論理は実は開いており、閉じているという事は成り立っていないのではないのか??」という事だ。

少なくともこの疑問に答えてくれないと※3、俺は、そういうタイプの科学は、仮のものとしてしか受け入れ難いところがある。仮のものとは、強くいえば、説明の系を作るために、世界の姿を捻じ曲げた(例えばよく使われる、~と仮定するならば、という言説の様に)、という事だ。もちろんモデル作りとはそういう面はある。つまり簡略したとこから始めるって事だ。しかしそれをずっと続けるとするなら、それは果たしてまともな科学的方法だといえるのだろうか。デフォルメされっぱなしの絵を精密にしても、精密なデフォルメ絵が出来上がるだけではないのか※4。

※3:もう一つの疑問としてあるのは、ある事象を、どんな根拠があって、ある記号系に転写できると思ったのか、という事だ。事象の系と記号の系が転写の関係にあるのなら、記号の系で成り立つ計算は事象の系にも転写できるだろう。ところでそこに転写関係がないのなら、それは記号の系で起きた事は事象の系には転写できないだろう。「これを埋めるのが実験だ」という話になるのかもしれないが、実験をする事でなぜそれが埋められると言えるのか??実験によって示せるのは「おそらく合っているだろう」という高いかもしれない確度の「推測(〇〇かもしれない、という事)」であって、事象系と記号系の間で転写が成り立つという「(断定できる)根拠(〇〇である、という事)」自体は実験によっては一切示されないように思うのだが。物理にせよ何にせよ、それは事実の絵姿を断定できる根拠を以って表現した系ではなく、事象の絵姿をある種の曖昧さ(転写できる根拠の曖昧さ)を伴う推測を以って表現した系である、という事は一歩も出ないのではないのか??そして俺が思うのは、例えばそういった「世界の分からなさ」というのは、ちゃんと引き受けなければならないのではないのか、という事だ。分からないものを分かる風に見せかけてしまったり、曖昧なものを明確風に見せかけてしまうのは、少なくとも科学的に誠実ではないのではないのか??

※4:「デフォルメされた絵」というよりも、「明らかに(あるいは意図的に)視点が抜け落ちた絵」って感じだが。デフォルメはいってしまえば全ての絵で行われる事だし、絵とはそういうものでもある。

そういった「科学者たち」の感覚が、俺にはちょっと分からないところがある。ある意味では「世界の分からなさ」をちゃんと引き受けて作られているところがあるような印象がある、神話や民話の方が、そういった科学よりもよほどリアルに描かれた絵のようにも感じられるところがある。


数理や論理についていえば、こう思う事もある。そういったものを扱う者たちの中では、おそらく公理を基としてそこからトートロジーを組み上げていく、というスタイルで、その数理なり論理なりのゲームは成り立っている、と捉えられている(と俺は思っている)。そこでは公理は不変という事にされている。問題を解いている最中に直線の定義がいきなり変わったりはしない。そこではAはAのままだ。少なくとも彼らが想像しているゲームとしては。

ところで俺らは通常は、移り変わっていく世界に生きている。昼が午後になり、午後が夕方になり、夕方が夜になる。空の色や空気の感じもいつの間にか変わっていく。そこではAはいつの間にかAではないものになったりする。しかし俺らのやっている事をゲームといってしまうなら、俺らはそういったAがAでなくなるかもしれないロジックのなかでもゲームをやっとこさっとこ成り立たせている(ホントに成り立ってるかは知らないけどな。しっちゃかめっちゃかなだけかもしれないしw)。

数理や論理がある種の妥当性があるというのなら、不変の公理に頼らずに、その様な移り変わりゆく世界にアプローチする事は、数理や論理を扱う者には出来ないのだろうか??俺はこれはある意味では出来ると思う※5。そしてこれをやらないのは、(ある意味では哲学的な方法論としての)公理なるもの(あるいはもっと広義には同一性なるものやその安定性)に耽溺/依存/盲信している者の怠慢や驕りや鈍さではないのか、という気もしなくもない※6。

※5:それは極端にいえば、自分が組み上げたものが、組み上げた傍から変化していってしまう、という事を受け入れた上での、そういったロジックの組み上げになるのかもしれない。それはヘンテコな話だろうか??もしかしたらヘンテコな話かもしれない。しかし例えば出した音はとどまらずどこかへ消えていくし、砂浜に絵を描いてもそのうち波でさらわれて崩れていく。そういったヘンテコな話ってのは、それなりにあるのではないのか??

※6:世界は不変の材質で出来ているわけではなく、移ろいゆく材質が組み合わせって出来ていて、その中で極めて大きく見た時に、繰り返し現れる(その意味で同一的風な)出来事がある(例えば季節、例えば生と生殖/増殖と死、例えば新しさ)、という事があるのではないかと俺は思う※7。そういう事を表現するには、不変の公理(のようなものや、それへの耽溺や依存)は、むしろ数理や論理などの記述系がその表現に到達する事を疎外するのではないのか??

※7:しかしそれは俯瞰的にみれば同一的風でも、おそらく当事者にしてみれば成功するかは全く分からないイベントなのではないのか。その類の繰り返しが確実に繰り返される保証がどこかにあるとは俺は思えない。その意味でベイトソンのトートロジーの話はちょっと分からないところがある。トートロジー的なるものがあるとして、それはベイトソンの言うようにそれほど安定的で、「確実に」ひとりでに癒えていくものなのだろうか。それは成功するとは限らないイベントに、何らかの都度都度臨むという面を持っているのではないのか※8。

※8:俺としては、成功が保証していない※9からこそ、「新しさ」というのがあり得るのではないか、という気がする。もち合ってるかは分からない。ただ成功が保証されている賭けがあるとすれば、そこではシステムのうちで旧いものが常に変化を被らずに生き延びている気がする。それは新しいような気がしない。そして俺の推測では、なんらかの形で世界に新しさが吹き込まれないと、世界はいずれ古くなって死んでしまう。これはベイトソンのいうトートロジーも(トートロジーの部分部分だけでなく、トートロジー全体自体も)含めて例外ではないのではないか、と思ったりする。もち合っているかは分からない(/ω\)

※9:そして、成功が保証されているとは限らない賭けに臨む事が、(狭義で/我流の意味で)コミュニケーティブであるし、コミュニケ―ティブなとこがないと、ダイナミズムがドライブする事につながらないし、ダイナミズムがドライブしないと、新しさは生じず世界は徐々に古くなって死に絶えてしまう、様なイメージはある※10。繰り返すけどあってるかは分からない、これらは関係している気がするけどこの順序でいいかも分からない(/ω\)あと賭けとか書いてるけど、いわゆるギャンブルは別段新しさにつながらないと思うし(むしろ依存と耽溺と固着を招いて新しさを疎外/阻害するのでは。。。)、個人的には全然興味ないっすw。個人的な好みめっちゃ入るけど、季節の移り変わりのうちの木の姿を見たり、笛吹いたりしてる方が、そういう「生きた世界の賭け」のなんか近くにいたり、小さいそれをやっているようなイメージ(*´艸`*)

※10:例えばだけど、今の俺的には、ダイナミズムを徹し/通し、システムに息を吹き込むことは重要ではないか、と思っている。また我流解釈になるが「コミュニケーション」とはコードのやり取りではなく、そういった事(システムに息を吹き込む/システムを動作させる)に関連する事だと思っている。そういった事をやるには、おそらくその動作を喜ぶもの、あるいはその動作への愛情なるものがないとダメだろう、というのがとりあえずの俺意見※11。少なくとも保身的な傾向からは動作のためのアクションではなく、現状維持あるいは停止のためのアクションが生じがちだ。そして現状維持あるいは停止のためのアクションからは、そういうシステムを動作させる何かは生じてこない気がする。

※11:これは例えば、自己の生命なるもの(のみ)の存続よりも、他者の生命の存続あるいは自己と他者を含むグループの存続を優先させる事によって、より大きなグループ、大きなクラスの存続を目指したり、あるいは自己の生命の存続とは異なる価値あるいは基準を存続させる事を目指す、という話になるのかもしれない。この辺りはベイトソン風に、(自己という)メンバーではなく、クラスを重んじる事が出来るかどうか、みたいな話になるかもしれないし、ならないかもしれない。俺はこの辺はまだよく分からない(そして下手に解釈されるとすごく危うい方にいきかねない事だとも思う。馬鹿げた全体主義※12とか、あるいはその時代における是非は別にして、古代メキシコの生贄の儀式とかな)。まあただ分からないけど、ざっくり想像すれば、自分よりも自分が好きなものの方が大事、っていう感情の派生形なんすかね。あるいは自己or他者みたいな話ではなく、(単純な自己(のみ)でも、単純な他者(のみ)でもなく)そのシステムのうちで大事だと思える何かを(システムにとって適切なタイミングで)通す/実行する、って事かもしれない。よく分からんぜーw

※12:ところで馬鹿げてない全体主義ってあるんすかね。あんなもん全部くだらねーと思うが(*´艸`*)

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