2017年9月6日 - 80

メモ:意識について

あるブログ(?)の人が人工知能とかロボットの意識とかについて書いていたけど、人工知能絡みでよく出てくる、ディープラーニングのある意味でのバカバカしさをちゃんと捉えた上で人工知能の問題(?)に向き合ってて良かったです。以下のリンクみたく、意識について書いていたので、俺もちょっと引きずられて書きますw粗いとこあるけどいい視点のメモもあるかもっす。と自分でいってみるw

主観と客観

そもそも意識って何?人工知能で人工意識は作れるの?


のっけからで申し訳ないが、俺的には上記の記事の記述だけでは、意識について語ろうとするにはあまりにも足りないと思う(まだブログ全部読んでないんで間違ってたらさーせん)。意識体(ここでは「意識(主語)」と「意識する(動詞)」を明示的に分けるために、仮に「意識(主語)」の方を「意識体」と書きます)というのは、少なくとも、身体にひもづいていなければならないのではないか、というのが俺の予想だ。それは、例えば生命の危機、快不快、欲求、情動などは「身体(というハードウェア)にとって、そこで起きている事が、(原初的なレベルで)どのような(意味の)ものか」という「評価」ではないのか、と感じられるからだ。仮に意識体を「ソフトウェア」だとするなら、おそらく、ソフトウェアだけでは何一つ評価出来ないのではないかと俺は想像する。まだはっきりとした根拠はわからないが、ハードウェアにとってある現象がどのように評価できるのか、という「(評価の)基準」を欠いては、世界は意識体にとって意味をなさないのではないか、という印象がある(「ハードウェアとソフトウェア」っていいかたをしたが、これはベイトソンのように「プレローマとクレアトゥーラ」でもいいのかもしれない)。

意識とは、ある捉え方をすれば、身体(あるいは「ものそのもの」としての「真の身体」)が、(真の身体による)ハードウェア的な評価を一つの基底的な基準とした、情報のエコシステム※1としての自分自身を、総合的なイメージとして構成/再構成する場、あるいは立ち現れるそのイメージそのもの、なのではないか、とも想像する。だからそれは操作可能だ。例えば俺が気絶から起き上がった瞬間は、床は斜めに感じられたり動いて感じられたりする。それは「総合する」という操作が間違ったからだ。いいかえればそれは(繰り返しになってしまうが)リアルそれ自体ともいえるイメージそのもの(もちろん視覚的なイメージだけじゃなく、うるささだの痛みだの熱気だの分厚さなども伴う)であり、イメージであるがゆえに操作だの間違いだのが可能なのだ。こういうのはごく身近な例だと「痛み止めは傷を修復して痛みを止めるものではなく、痛みの伝達を止めるもの」ってのとそれなりに同じような話なのではないか、といってもいい。

※1:例えば俺のカラダ、俺の家族、俺の働き方、俺の来歴、俺の生き方、等々も含んだエコシステム。ただしそれが、脳を一つの重要な/中心的な要素とした神経系や、血、肉といった「いわゆる俺自身(の存在、あるいは真の身体)」を極めて中心的なものとして立ち現れているってのは、それはそうだと受け止めなければならないのではないかと思う。俺は上記のような無数のものの複合体ではあるけれど、あっちこっちに平均的に偏在するわけではなく、カラダを中心に生きて、現れている。例えば俺の服は「俺というシステム」にとってある程度簡単に取り替えられるが、俺の腕や眼は「俺というシステム」にとってかなり取り替えづらい。

ところで薄っぺらい脳科学風な言い方をすると、「世界」は「脳」が「私」に見せている「幻」という事になったりするらしい。ここで「脳」と「私」はどうやら別のように扱われているが、では「私」から「脳」を取ったら、「私」は残るのだろうか??少なくともまともなカタチで残るとは俺には思えない。こんなものは全然言い方を間違えているのではないのか??簡潔に(そしてちょっと間違ったかもしれない形で)言うなら「意識は脳(という情報総合的な器官)自体の体験様式そのもの」なのではないのか??※2

※2:もちここでいう脳とは「脳単体」ではなく「脳を一つの重要な/中心的な要素として含んだ情報のエコシステム全体」って事になるんだろうと思うが※3。下述の「私」とはちょい異なると思うが、その意味で、「脳を一つの重要な/中心的な要素として含んだ情報のエコシステム全体」をある意味では「私」って呼んでもいいかもと思う。あるいはそれらともまた少し違い、ハードウェアとしての真の身体から「世界への契機」として起動してくるソフトウェア、としての自己感覚を「私」と呼んでもいいかもしれない。

※3:これは「脳」でなく「真の身体」とかでもいいのかもしれない。ただおそらくそこに、反射ではなく学習が起こる様な程度の、ロジカルタイプの踏み上がり/踏み下がりが起き、また複雑な再帰性を描き、そしておそらくはある程度開かれた、情報的エコシステムがないと「(それらのなかで総合された)意識」というものは生じてこないような気もする。この辺よく分からん。

その意味で「私」とは、「脳が、世界を体験する自分自身を名指した呼び名」なのではないのか??あるいはそこに社会的な要素も含めていくとするなら「私」とは、「脳がその体験様式において体験する『体験の束』への社会からの呼びかけ、に応える意識体としての自己、を、脳自身が名指した呼び名、であったり、あるいは、『社会から名指された呼び名』と『(意識体自身によって意識された)意識体あるいは体験の束としての自己』を、脳が重ねあわせて同一のものだって事にしたもの」ではないのか??

意識体はある意味では腕のようなものだ。それは自分自身を掴む時に、かならず掴まれない場所が出てくる。例えば俺が右手で右肩を持つと、上腕二頭筋あたりは右手では持たれない。極めて単純化すればこれとおそらく同じように、意識体が自己を意識する時、その「意識する事」に使われている意識体自体の部分を、意識体は掴めない。その意味で、意識体は、常に自己をどこかしら取り逃がし続ける。自己を完全に意識できる意識体というのは、少なくともこの意味では、おそらくありえない。その意味で、意識体はつねに、その意識体にとって、不透明さ、触れられなさのある姿となる、という想像を俺はする(今回は腕で喩えたけど、これは「ウロボロスの蛇は自分の胴体を噛めない」って言ってたアレっす)。

あるいは意識体は、その「手」が触れているものしか意識出来ず、その「手」が触れていないものの全ては、意識体にとっては明示的に扱えないものとなる、といってもいい。もちろん意識体自身も、意識体にとっては、その「手」が触れていないのならば、おそらく明示的には扱えないものとなる。意識体はそのように、常にどこかで、不透明さ、触れられなさのある姿でしか世界や自己を捉えられないのではないか、という想像を俺はする(そして意識体にとっては「手を触れている領域」が「その時々の全て」であるから、「手を触れていない領域」は、間接的に示される情報の束のベクトルによってしか示されないのかもしれない。それは例えば、「示唆」「欠損」「不在」といった(非-明示的な、あるいは明示的になりえない※4)出来事のベクトルの向く先/(つねに)隠された先かもしれない)。

※4:「手を触れている領域」を「明示的」とするなら、「手を触れていない領域」に「手を触れた」途端に、それは明示的なものになってしまう。もしかしたらだが、「手を触れていない領域」とか「手を触れられない領域(下述の「根」みたいな??)」をドンピシャで示そうとするなら「非-明示的にしか、あるいは明示的になりえない姿でしか」示せないのではないか??

そしておそらくだが、意識体は自身の「根」も掴めない。それは眠りに落ち切る瞬間に、眠りに落ちる自己を認識できないのと、おそらく同じ話だ。意識体は、おそらく(「ものそのもの」としての)「真の身体」から、ハードウェアからソフトウェアがbootするように立ち現れる。だが、bootする瞬間、ハードウェアの世界が動作しソフトウェアを現そうとするその時、そこには(まだ)ソフトウェアはいないのと同様に、意識体がたち消え、意識体の「根」が姿を表す瞬間、意識体はそこには不在で(あるいは少なくともそれを「認識」出来るようなものではなくなっており)、そのため、その「根」は意識体にはけして掴めないのだ、あるいは、意識体が立ち現れる前の世界は、意識体にとっては霧の中なのだ、という想像を俺はする。

前書いた事のコピペだが、意識を生じさせた領域を、おそらく意識は直接的には一切感知出来ない。感知のような事が出来るとしたら、おそらくだが、間接的に示される情報の束※5のベクトルによってだ。手掛りが全てこちらを向いているから、ってやつだ。

※5:予想だが、おそらく意識体の探究で有効なのは、意識体の「手」を様々な科学的(?)方法でより明示的により明示的になるよう伸ばすような探究ではなく、意識体がbootの逆展開を起こす時の挙動やそこで顕になるものを手探りで追うような、遡及的な方向性をもった探究なのだ(変ないい方かもだが「明るく」すればそれは硬化してその内奥に触れられなくなるのだ。より明るくして「目視」しようとしてもそれは無駄で、重要なのは「暗く」して、柔らかくなって内奥を開き出すそれに「手で触れ」て、その姿を探ってみる事なのだ)。

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