2017年12月3日 - 80

メモ:認識の無保証性について

タイトルまんまだが、俺は認識は無保証的であろうと想像する※1。

※1:おそらく無保証なのではなく無保証的なのだ。それを「無保証だ」と言ってしまえば、そこで無保証性が保証されてしまう。おそらくそこは不定で、分からず、揺れ動き続けるようなものなのだ。

例えばある正しさや妥当性が俺の認識を保証してくれている、とする。ところで、その正しさや妥当性を「正しい」とか「妥当だ」とか感じるのは、そういった正しさや妥当性に保証される前の俺の認識ではないのか。

そしてもし保証というものがあるとすれば、それは「これは正しい」というものでないだろう。それはいえば冗長性の織り重なりだ。こうであろう、という推測の統計的/経験的な偏りの厚み、といってもいい。それはもちろん不完全なものだ。だが、だからこそ世界は、あるいは認識は、動きを止めずにいられるのだ。

いえば認識はキャリブレーションを続ける。「世界はこのように動いているであろう」という推測や想像が(あるいは一種の不確かなゲームルールが)成立する前のランダム的で試行的な状態を繰り返し行い、その経験から「経験の偏りの厚み」を蓄積し、その厚みの織り重なり方から「世界がこのように動いているであろう」という事を推測/想像し続けていく認識の裁断と編み上げを行い続ける。

そしておそらくは、また少なくとも、この認識の裁断と編み上げ自体が、それが動き続け、停止しておらず、常に変容する過程にあるという事が、生きた世界の認識が成立している、という事なのだ※2。それはある「停止した正しさ」の積み上げではなく、不断の(そして不完全な)キャリブレーションの様態のうちにのみ成立し得るようなものなのだ。

※2:生命もそのような形でしか存在しないのかもしれない。

ところでまた、認識はおそらく単独では存在しない。「俺」だの「私」だのといったものが単独であり、そこに認識があり、そこに内部と外部があり。。。という様な様態はおそらくは取っていない。俺らがいる生態系において、進化とはそもそも共進化である、とするなら、俺らの周りには必然的に多くのものがある。認識とはそこにおけるフィードバックループのうちに成立するのであって、生態系から切り離されて単独で存立するようなものでは、おそらくは無い。

そして、しかしそれでも、認識は、その生態系の中における正しさなどによって成立するのではなく、そのフィードバックループのシステミックな積み重ねのうちに、淡く起動していく/立ち上がっていくものなのではないかと思う※3。

※3:(こっからはテキトー想像だが、)認識の起動には、起動の過程や歴史/来歴はあるだろうが、保証はおそらくは無い(ある意味では炎や陽炎のようなものだ)。そしてそのような無保証的な形で起動しているからこそ、認識は(永続的な確実性を求めて、あるいは永続性を求めて、いえばおそらく生きた世界においては幻想であろうものを求めて)探索的/探求的な振る舞いをするのかもしれない。


例えば3+7=10、というのは、俺らにとっては、俺らの認識において、また世界においてそれが結び付いて成立している間だけ成立しているのではないだろうか。これはトートロジカルだが、このトートロジカルさは重要ではないのだろうか。つまり世界はそれが結びついている間だけそのようであり、そしていつまでその結びつきが保たれているのかは誰にも分からないのではないだろうか。

 

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