2017年12月11日 - 80

メモ:名指される前の感覚的な世界について

そこでは振る舞いが全ての判断材料を提供する(おそらく正確には、名指しも振る舞いの一種なんだろうが)。

そこには名称はなく(主語的な認識は「振る舞い、つまり述語的なものの取りまとめ、あるいは述語的なものの収束するもの」として「それ」程度の認識であるかもしれない)、述語的なものの連鎖が、無数の情報を提供し続ける/環境情報をアフォードし続ける。

そこでは振る舞いから連想されるものへの対応のバリエーションが重要となる。言い換えれば、振る舞いからの連鎖的連想のバリエーションが認識の極めて重要な部分を成す。その意味で、そこのシーケンスは夢のように(アナロジーやメタファーや象徴や無数の連想を展開しつつ巻き込みつつ)進行する(振る舞いの死角や矛盾や重ね合わせなども、またおそらく無数の連想をアフォードする。般若とオカメがある主語的なものに同居したり、奥行きが振る舞いとしての意味を持ったりする)。

そこでは、そもそも無数の事、様々な事は「分からない」。そこでは、おそらく不完全かもしれない、提供された振る舞いだけから、全てを、あるいは多くの事を想像しなければならない。確たる因果関係が成立し切った状況などは、おそらくそこには成立しない。

ところでこの様なありようはしっかり追っかけるとして、なぜそういったところから「色んな事は分かる世界」が(インチキにも)出来てしまったんだろうか。。。(・∀・;)※1

※1:俺のざっくりした予想はこういうもんだ。複数の分からなさ、複数の分からないものを重ね合わせると、その重ね合わせ(あるいはシーケンス)のうちに、ある種の「分かる」が出てくる。それをまた重ね合わせて、またある種の「分かる」を作り出す。そうやって出来ていった「分かる」を組み合わせて世界の出来事や仕組みを描写しようとする、ってもんだ。ただしかし、その「分かる」の基底には常に分からなさが横たわってるように思うし、またその「分かる」は常に分からなさに開かれたものでなければマヤカシではないかと思う※2※3。

※2:(ざっくり予想だが、)なぜなら全ての生きたコミュニケーションは、おそらく「分からなさのレベル」で行われるからだ。何ものかと、あるいは世界とのコミュニケーションを欠いた「分かる」など本当にあるのだろうか??もしあるならそれは何を「分かる」というのだろうか??

※3:また俺が思う事はこうだ。俺らがその「分からなさ」の中で、何かを掴もうとする時、それはカテゴライズではなく、分からなさ/情報のベクタライズ※4によるのではないかと。つまり情報の織り重なり/折り重なり(あるいはシーケンス)のうちに、どの様な誘導線を見いだせたか、その誘導線をどのように感じたか、それに対してどう(投企的に)アクションしようとするか、という事になるのではないかと。

※4:俺言語でさーせん。情報の方向性(ベクトルっぽいって事にする)を、その重み付けにしたがって合成する、事で提示された情報群が総合的にどのような事を指し示しているのかを想像しようとする、ようなイメージっす(*´▽`*)まあベクトル処理的でない事も往々にしてありそうですが(/ω\)イヤン※5

※5:おそらく重要なのは、そのベクタライズのうちに現れる、情報/体験/示唆/予感/喪失、の構造/動的構造なのだ。


極端な話、ここには名詞的なものはなく、無数の何らかのゲシュタルトと、その振る舞いがあるだけではないだろうか??俺らはそこに、誘導線や集中線(あるいはそれらの織り重なり/折り重なりや死角(特に「向こう側的な死角」)や予感)を見出し、それらによって無数のゲシュタルトをかりそめに区分し、かりそめに区分けたものを、音声などで名指しているだけという事はあるのだろうか??

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