2017年12月18日 - 80
メモ:言語について
言語とは、一つの捉え方としては、連想を促す標識やタグの様なものではないのか。それはある何ものかを明確に指し示す、というよりも、ある何ものかへの連想的な振る舞いを明示/暗示するものではないのだろうか。こんな言い方をするなら、言語/言葉/単語とは、連想素のようなものではないのだろうか。
そしてまた文法とは、それの振る舞いをある方法で積み重ねたり崩したり出来るようにした、例示のパターン群であって、それは一つの例示群でしかない、という事だったりするのだろうか。
また言語的なものが道路標識だとしたら、それが指し示す「道なるもの」は、標識から連想され得るとしても「標識と道は異なる」という事で、また違う広がり――道としての広がり――を持ち、示し得るのではないだろうか。そしてそれとはまた別に、標識で織り成された世界――標識群による広がり――というのもあったりするのだろうか。
そしてまた、標識が織りなすメッセージと、道が織りなすメッセージというのは、それぞれ入り混じりながら展開したり細切れになったり壊れたりするのだろうか。あるいはまた、標識も、道も、無数のメッセージ群が取る一つの様態であり、そこからさらにさらに広がりがあったりするのだろうか。
そしてまた重要なのは、連想素がどのように構築され、どのように振る舞うかではなく、つまり「標識がどのように構築され、どのように振る舞うか」ではなく、「道(あるいは道と標識のゴタマゼ※1)がどのように構築され、どのように振る舞うか」であり、そこに/そこの芯に/そこの全体に/そこの深奥に、何が/どのようなものが、「通っているか」「動いているか」「止まっているか」ではないのだろうか。
※1:なぜなら最終最後を突き詰めれば、おそらく標識は道と同一の素材で出来ているのだから。例えば神経伝達物質が、情報であると同時にタンパク質であるのと同じように。言葉が、情報であるのと同時に音響/音声であるのと同じように。
そして、俺らのコミュニケーションのコアの一面にあるものは、極めてざっくりいえば、その「全体に/芯に/深奥に、通っている/動いている/止まっている(と想像/推定/推測/予感される)もの」へのアクセス(あるいは投企的アクセス/アクセスの試み)ではないのだろうか※2。
※2:的確かとか妥当かどうかはともかく、非常に分かりやすい比喩で、卵子に飛び込む精子というのはあると思う(ラクダの毛でもいいらしいが)。それはある刺激を与え、卵子がポテンシャルとして持っていた細胞の分裂生成※3を呼び起こす。
※3:ベイトソンが例示した意味ではない。ただこのプロセスは、単なる「細胞分裂」とは書きたくなかった。そこには生理的な分裂動作だけでなく、生命的あるいはシステミックなプロセスの解放があるようにも感じるので。
コミュニケーションについてのこういった捉え方は、ざっくりいえば、(システミックな世界において、)道や標識のパターンが示す奥行きはあるかもしれず、奥行きのパターンが示す芯/核(システムのダイナミズムの芯)はあるかもしれず、ダイナミズムの芯/核には何らかの方法でアクセスやアプローチが可能かもしれない、というものかもしれない。
これはある面ではアニミズム的にも感じる。それは物体や事象の人格化/神格化や、あるいは原始的な信仰のカタチというよりも、ものごとの姿のなかにシステミックなシステムの姿(パターンと奥行きと芯/核)を見出そうとし、そこにアクセスしようとする、世界への(投企的な※4)アプローチ方法なのかもしれない。
※4:なぜなら、例えば、俺が対話可能性を見いだすようなものは、実際には対話出来るものではないかもしれないから。しかしまた対話とは、対話可能性を信じながら対話に臨まなければ、成立しない(システムの奥行きの先にリーチ出来ない)ようなものかもしれないから。
ところで適当書くと、上で書いたような、システムの芯/核ってのは、それがあるとすれば、それは(破壊を受け入れることもある、という程度に)動的かつ位相的なものであったり、「メッセージの扱いに関する方式それ自体/メッセージを扱う方式そのもの」だったりするのかもしれない。この辺りはよく分からない。分からんついでにさらに適当書くと、ユングとかフロイト的な象徴みたいなものは、この位相の姿を実体的に示そうとしたらこんなもんでした、ってやつなのかもしれない。
※5:位相的なってのはオートポイエーシス的な捉え方かもと感じるけど、そして俺はオートポイエーシスはよく知らんけど(←ちょっと説明読んだだけ(/ω\))、ちょっと閉じ気味で意味も無く(あるいは重要な事をこぼれ落とす程度に)形式的な捉え方に過ぎる印象が今のところある。あとオートポイエーシスのリンクのとこにあるアロポイエーシスって面白いす。システミックなシステムってオートポイエーシス1色じゃなく、少なくともその二つのゴタマゼ的なのでは??※6機会があれば本読んでみます(*`・ω・)ゞ
※6:例えば交配は、個体としてはアロポイエーシスを行いつつ、種としてはオートポイエーシスを行う行為に感じる。そしてまた子は親と種として全く同一かを断定出来ないので、それは種としても幾分アロポイエーシス的な行為かもしれない。しかしさらに大きく生命という括りでみると、それはオートポイエーシス的なのかもしれない。しかし同じ(抽象的あるいは位相的な)生命の姿がまた生じるとは限らないのでそれはそれなりに投企的でアロポイエーシス的かもしれない云々。
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