2017年12月23日 - 80
メモ:物質、情報、言語について
ツツジやガードレールや道路は、「私はツツジです」「私はガードレールです」「私は道です」と名乗ったり、そこに名前が書いてあるわけではない。それらはそれらがそう現れるように現れ、「区切り」と書いてあるような区切りを持たない。そこには名前は書いて無い。俺らは、それがどうったものなのか、という事を分からないまま、それらに分け入っていくことになる。
ところでまた、物質は情報でもある。たとえばあるタンパク質は、抗体反応を引き起こす。それが(病原体の様に)抗体反応を起こす必要があるようなもの、でなくともだ。そこには「こういうものが来たら抗体反応を起こせ」と組まれた免疫システムに対して、メッセージとして振る舞い、免疫システムに何らかの挙動を起こすタンパク質の構造がある。そこではタンパク質の構造が、つまり物質が、情報として振る舞っている。
ところでまた、この実際は(病原体と違って)無害にしろ抗体反応を引き起こすタンパク質、に対して、例えばチョウチンアンコウの提灯は、別の魚に対して餌のように振る舞う。しかし魚が寄ってくると、その魚はチョウチンアンコウに食べられてしまう。
ここにはシーケンスの違いがある。まず1つ目に、ツツジなどは、例えば花があればそこに枝があり、枝には葉がつき、枝の元には幹があり。。。というシーケンスが想定される。道があれば、それはさらに続く道というシーケンスが想定される。俺らは往々にしてそのシーケンスを期待する。
2つ目に、先のタンパク質では、タンパク質の特定の構造から、次の「有害であろう」というシーケンスが想定される事で身体は抗体反応を引き起こす。そのタンパク質が実際は無害としてもだ。
3つ目に、チョウチンアンコウでは、提灯の振る舞いから、「餌がある」というシーケンスが想定される。しかし実際に魚が近づくと、そこで魚は餌を食べる事は出来ず、チョウチンアンコウに捕食されてしまう。
例えばチョコレートは犬に食べさせると有害らしい。しかし俺はチョコレートは好きだ。犬というシステムと、俺というシステムとの違い、チョコレートに含まれるテオブロミンとかいう興奮物質の代謝速度の違いが、この結果の違いを誘発する。そうなると、チョコは俺にとっては良いもの、犬にとっては悪いもの、となる。そこでは同じものが、相手取るシステムによって作用を変える。
あるいはまた、車は俺に取って、乗れるものであり、速いものであり、便利っちゃ便利なものであり、轢かれるかもしれないものであり、喘息に悪い排気ガスを出すものでもある(俺喘息持ち)。俺というシステムにとっても、その立場(自動車を運転する、乗せてもらう、轢かれる)で、そのものの意味は変わってくる。あるいはただの石でさえ、俺には躓いたり、投げる事が出来たり、それにぶつかってケガをしたりするもの等として様々に振る舞う。
すべての物質は、生体にとって、あるいはシステムにとって意味がある。石でさえ(凄い速度で当たれば)俺には俺を破壊するものとしても振る舞う。すべての物質は、この限りにおいて、情報として振る舞う。ここでいう情報とは「意味だけの何か」ではなく、実体的な振る舞い(と感じられるもの)のあるなしに関わらず、システムに取って何らかの変化を引き起こすものだ。情報とは、あるいはシステムとは、「意味だけの何か」ではない。なぜならシステムもまた物質であるからだ※1。全ての物質は、いえば作用素のようなものだ(この〇〇素ってのがちょっと馬鹿げているのは分かっているが、あえて使う)。世界は作用素が組み合わさって出来ていて、それは相互に何らかのカタチ(生き物のカタチ、石のカタチ、水のカタチ、等々)を成し、振る舞い、作用しあう。。。
※1:この書き方だけだと語弊がある(差異や欠損もシステムの一部である、という事から)が、今はこう書いておく。今ここに差異や欠損まで含めると混線し過ぎそうなので。
その作用は、予期される事もある。つまりそこで織り成されるメッセージ/情報にはヘッダとボディがあり、ヘッダはボディを、あるいは次に来るシーケンスを示唆する、という格好だ。花があればそこに枝があり、枝には葉がつき、枝の元には幹があり。。。というシーケンスが想定される、という格好だ。俺らは世界の無数の組み合わさり方のうちに、無数のシーケンスを想定し、予期しながら、そこに分け入っていくことになる(欠落もまた何らかのシーケンスを予期させる)。予期は当たることも外れることもあるだろう。そこにあるものが何か、ということについては、そこにあるものは名乗らない。餌に見えるものがチョウチンアンコウの提灯でそこに近づけば食べられてしまうかもしれない。ツツジに見えるものはただのツツジかもしれない。道に見えるものは、少し行けば行き止まりかもしれないし、どこまでもどこまでも続いているかもしれない。。。
では言語は名乗りなのだろうか。そこに「ここは区切りです」と書いてあればそれは区切りなのだろうか、例えば嘘つきが「私は正直者です」といえばそれは名乗った事になるのだろうか。シーケンスのヘッダをかき集め、パッチワーク的に並べたものが言語(あるいは言葉)の一覧である、といってはまずいのだろうか。あるいはそこにあるのは「その続きに『シーケンスのボディや、シーケンスのヘッダ』が現れる」という事にされているアイコンの切り貼りだ、とってはまずいのだろうか。「立ち入り禁止」と書いてある文字は、そこに立ち入る事をいやがる何者かを示唆するが、本当にその何者かはいるのだろうか。それはタンパク質の特定の構造のように、(抗体反応を起こす)ヘッダとして振る舞うだけで、(病原体的に振る舞う)ボディは無かったりするのではないのか※0。
※0:このように(一種のシーケンスヘッダだと)言語を捉えることで、他の非言語的なシーケンスヘッダと重ね合わせて捉えることが出来るかもしれない。そのように捉えたとしても、もち言語はそれ独自のマップのうちにマッピングされ、それ独自の文法のうちに組み立てられる(いえば操作性が高く、音響/音声や文字以外の実体的なものを大きく欠いても組み立て構成が機能する)、という他の非言語的シーケンスヘッダにはあまり無い(あるいは他の非言語的シーケンスヘッダでは未分化な)振る舞いがあるのかもだが。
あるいはまた、物事は常にまだ中身が分かり切っていない関数的なもので、そこには分からなさの余地を残さなくてはならないのではないだろうか。ヘッダに「これは〇〇だ」と書いてあり、それが定義だという事にしても、それがその様に振る舞うか、あるいは実際どのように振る舞うかは分からないのではないだろうか。その意味で、物事にアプローチする時に定義から入ってはまずいのではないだろうか。
その物事の実体が姿を現すような入力を、その関数に対して行い、そこからの出力から、暫定的に「それは(今のところ)〇〇だ、××のように振る舞う」「だから実体はこうではないか/こうかもしれない」といえるのがせいぜいではないのだろうか。。。逆に、定義から入る事で「『余地を残してアプローチすべき類と想像されるもの』へのアプローチを間違えてしまった」→「アプローチを間違えたからそれへのリーチが出来なくなった」という事にはならないのだろうか(いえば「無数の出力から類推や推測するしかないなにか」に対して、類推や推測をする余地を排除する事で、そこへの/それへの経路を閉ざす、というか)。あるいは、残した余地へのアプローチの仕方はすこし特別なやり方になる、という事にはならないのだろうか(今は俺はそんな風かもと感じている)※2。
※2:情報を定義するのではなく、現れてきている情報の織り重なりのなかから、ある動線を導き出す、その動線の重なりが示すところに、何かがあると想像し、その何かに向けてアプローチする、というようなスタンスだ。もちろんこれが合っているかは分からない。これは、ここに書いたように、過度に明示的にやる事で、やはり必然的に失敗してしまうのかもしれない。それはもしかしたら「笛はちゃんと吹こうと思える様でないとダメだけど、ちゃんと吹こうと思って吹いてもダメだ」というのと少し近い事柄かもしれない。雑に言えば、そこにリーチするために精度を上げるのはいいが、それが行き過ぎて余地を潰してはそこにリーチ出来ない、という事柄かもしれない。あるいはただ単に、おかしなやり方(あるいはおかしなスタンス)でアプローチしたら、ちゃんとしたレスポンスが返ってこない、というものかもしれない※3。
※3:話を違えているのかもしれないが、例えば観察者然としたスタンスで接してくる相手がいたら、少なくとも俺は心を開こうとは思わない。「こっちを何だと思っているんだ」と思った上での硬い反応(あるいは幾分怒った、緊張した反応)を返すだろう。それと同じように(?)こちらが取っているスタンスが、そのシステムにアプローチするのに不適切だから、そのシステムは適切なレスポンスを返さない、という事があるかもしれない。そしてここでいうところの「不適切なスタンス」とは、定義を持ち出したり観察者然としたりするようなスタンスかもしれない。そこではむしろ、観察者や分析者的ではない態度やスタンスが、あるいは観察者や分析者的である事を失っているような態度やスタンスが望まれているのかもしれない。いえばそのシステムは、過度に観察したり定義を持ち出したりといったスタンスでは、(例えばシステムがそれを受けて経路を閉ざす事によって、あるいは、例えばそれをしようとした者自身がそこへの視線を自らの行為によって塞がれる事によって)その深奥にアプローチ出来る経路が失われるものかもしれない※4。
※4:平たくいえば、やわらかいシステムの深奥に(あるいはシステムがやわらかくなるときの深奥に)アプローチするなら、こちらもあちらもある程度やわらかくなっていないとそれは出来ない、というものかもしれない。なぜならあちらだけでなく、こちらもまた生きた/システミックなシステム、と思ってよいのだろうから(この辺りは、例えば自身や相手や世界への信頼や不信や投企的な思いとも関係するかもしれない)。
それは名前の書いていないブロックの積み上げや奥行きのうちに何らかの構造や姿や存在を見いだす、ような事かもしれない。そこに名前の書かれた(事にされた)ブロックが入ると、そこの意味が変わってしまう、そのような奥行き。
あるいは言語についてはこういう話でもいい。つまり、言語的なシーケンスヘッダも、非言語的なシーケンスヘッダも、それ単独のみではなく、複合的に組み合わさって何らかのメッセージや次のシーケンスの示唆を構成する、と。これは例えば(いわゆる)デザイン的な領域の話と親和性があるのかもしれない。つまり物の配置、物がある事、物がない事、言葉やざわめきがある事、言葉やざわめきがない事、等で、次にどのようなシーケンスが来るのか、あるいは次にはこれといったシーケンスは来ないのか、を示唆し得ると。そこでは言語や言葉は何かを指し示すものというだけでなく、無数のものと合わさり、次のシーケンス(あるいは次のシーケンスの欠如)、あるいはまたそこがどのような場であるか、を示す複合的なシーケンスヘッダとして振舞っている、と※5。
※5:極端な(もしかしたら幾分重要な視点を欠いた、あるいは話を拡散させてしまうような)いい方をするなら、あるもの/ある場/ある場面は、それがメッセージあるいはシーケンスのボディ/本体/そのもの、であると同時に、そこから連なり得る全てのシーケンスへのヘッダ(あるいは象徴、あるいはアイコン)とも捉えられるし、その意味で(、そことは違うもの/場/場面への)経路とも捉えられるのだ。
生きたシステムは、同一の素材(物質)を使いながら、異なるレイヤー(ロジカルタイプ)の情報を示す。これは特別な事ではないと思う。例えば会社の社長の部屋に行く通路も、部長の部屋に行く通路も、平社員の部屋に行く通路も、同じコンクリ素材で出来ている、のような話だ。身体内の情報も、同じようなタンパク質、同じような神経伝達物質を使って、異なるレイヤーの情報を複雑に伝達しているのではないか、と俺は想像する(部位、情報系統、伝達内容ごとに、そこで使われる物質が異なる事もある、というのはあるだろうが)。重要なのはどのような素材かではなく、それがそのシステムにおいて情報としての体を成すかどうかだ。「ある時のA」と「別の時のA」が同じ素材で出来ていても、それ自体や経路が壊れてしまえば情報としての体を成さなくなるかもしれないだろう。。。
一つのいい加減な推論はこうだ。言語、非言語、非言語に示唆される領域、これらは全てゴタマゼで(複雑に絡み合っているのでどちらが上でどちらが下といった明確なロジカルタイプなど無く)、奥行きがあるものだと。非言語の示唆する、非言語に示唆される領域、に示唆される領域、に示唆される領域。。。のように、どこまでも続くのかもしれないと想像できるような奥行きが。そしてこれはおそらく無際限かもしれないと想定/想像可能なのだ※6。そしておそらく、そこに連続が/次のシーケンスがあるかもしれない、という想定に立ち続ける限り、ここは(次に起こること/そこに隠されたこと、の)無際限に対して開かれていなければならない/想像力を殺してはならない地点なのかもしれない※7。今の俺にはそれはよく分からない。
※6:今提示されているものがシーケンスボディであると同時にシーケンスヘッダであるなら、それは伝達されているメッセージ本体と同時に、そのメッセージから連想/分岐し得る全て/もしかしたら無際限であるかも知れないものや出来事、あるいはそのメッセージから連想/想像しえるそのメッセージの奥に働く全ての/もしかしたら無際限であるかも知れない働き、の象徴や表象である、という捉え方。
※7:情報にレイヤーがあるとは、今現れているその奥にあるもの/働きを想像し得る、という事だ。そして奥にあるもの/働きがどのようなもの/働きかは、今現れている情報の配置や動き、いえばデザインから想像されるのだ。このデザインを取っているもの/情報の、コアや奥にある働きは何か/どのようなものか、のように※8。
※8:おそらくはそういった想像を要請される場に生きたものはいるし、また生きたものはそういった想像や、想像への要請も使いながら、時にコミュニケーションを行っているのではないか??例えば民話なんかでありそうな、幾つかの徴(しるし)から、それが分かるものだけに次のシーケンスや意図(いえばシーケンスが起きる条件群あるいは機構)を示す、など。
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