2017年12月24日 - 80

リアルについて

(知り合いとのやり取りからの抜粋&一部改変っす。)

俺にとって「ゲーム」と「リアル」の違いというのがあります。平たく言えば「ゲーム」というのは「ルールは破壊されないもの」で、「リアル」というのは「ルールも破壊され得るもの」です。数学も、野球も、あれもこれも、ゲームというものは「ルールのうちで楽しむ」ものです。しかしリアルは、ルール自体が変化や破壊を被り得る可能性を持つものです。ルールとその他のものの論理階型が同じというか。ルールもその他のものも同じように審級にさらされているというか。この意味で、俺はリアルに立っていたいなと思っています。そうでないとやはり、コミュニケーションの核心を失う気がします。

この辺りについて言えば、皆「ルール」が好きなんですよね。ルールも破壊され得る場に立とうとしないというか。何かのルールや安全性にすがろうとするというか。俺はそこは違うのではないかな、と思っています。ルールも、あるいは自分も、破壊され得る場所に立つことがちゃんとした事だと思っているというか。そういう場でしかコミュニケーションの本質は起動しないし、そういう場でこその営みが重要あるいは基底的だと思うんすけどね。極端な言い方をすると「自分の生(せい)をちゃんと破壊に晒す」のが大事というか。

俺はおそらく日本人的な感覚で桜が好きなんですが、桜がきれいだと思うのは、咲いて散る、という生成→消滅のプロセスを、(自然という)破壊に身を晒しながらやっている&そこに生が通っている、からではないかと思うんですよね。桜という具体物がどうこう、日本人の美意識どうこうってのは置いておいて、これは俺には重要な価値観や美意識なのではないかと感じられます。

そしてこれは一種のロマンティシズムだとは思うんですが「生成→消滅のプロセスを、破壊に身を晒しながらやっている&そこに生が通っている」という生同士が出会う事があれば、それを遭遇やコミュニケーションと呼んでもいいのかな、という気もします。ただ植物とかって結構そういうレベルでやり取りしている気もするんですけどね。

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