2018年5月23日 - 80

メモ:プレローマについて、情報なるものについて

例によってSさんとのやり取りから抜粋&一部修正。やり取りいうてもだいたい俺が一方的に書いたり話したりしてるだけなんですが(/ω\)


あ、あとプレローマ関連で問いかけをするなら、

プレローマを全ての意味や概念や情報が解体し尽くされた世界とするなら、そこにおける情報の生起とはどのような事態か??言い換えれば、情報とはどこから情報であり得るのか??※1

ってのがあり得る感じています。

超適当なこというと、プレローマなんてものがあるとしたら※2、プレローマにおける生命の発生を捉えようとするより、プレローマにおける情報の発生を捉えようとする方が、よりストレートな踏み込みではないかって気もします。こういう踏み込みをしようとした時に、例えばベイトソンの「重なりとしての世界」とかは活きてきそうです※3。

※1:あるいは意味とはどこから意味であり得るのか、あるいはゲシュタルトとは、あるいはシステムとは、あるいはシステム以前のゲシュタルト(例えば、構成素の産出が基礎づけ関係によって連鎖しているだけで、まだ産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉域を形成していない時点、というようなやつ??)とは。

※2:しかしところで意味や想像力が解体し尽くされて死に絶えた世界を想像する(想像し切る)事は出来ないと思う、なぜならそこでは意味や想像力が解体し尽くされて死に絶えているので。まあでもベイトソン的な「重なりとしての世界」「無から有は生じない」あたりの話でいうなら、もしも無の重なりから情報が生じるなら、無から「重なりとしての有」は生じる、みたくなったりならなかったりするのかもしんないけどな(/ω\)

※3:色々書いてるけど、俺が分かりたい/踏み込みたいと思うのは、例えばこういう話っす。事物のうちから情報なるもの/意味なるものはどのように浮かび上がっているのか、その情報/意味の示す奥行きはどのようなものなのか、そもそも事物は単純に思われるような事物なのだろうか(例えばそれは情報が意味らしい意味になる前の、ある種の(不可解な/非公理的な)情報のゲシュタルトだったりするのだろうか)、みたいな。


有用性とは何らかのシステムにとって有用であるかどうかの話であって、世界は有用か無用かとされる前の、そのように組み合わせられたり組み上げられたりする前の出来事で溢れている。システムはそこに投げ込まれる。はじまりはそういう場のありようからだ。有用性の話はその後だ、それもおそらくだいぶ後だ。そして本当は(?)、はじまりの場のありようはずっと続いている。世界はシステムにとって有用でも無用でもなく、ある意味では、奥行きとざわめきをもって開示され続ける(だけの)フィールドだ。そのようなところから始めないと、訳が分からなくなってしまう。そしてまた一方で、システムは何らかの欲求をもって世界に投げ込まれる。システムは世界に、自らの欲求や感覚にしたがって何らかのものを見出す。システムにとっての「文化的世界」は、ある意味では、そのように見出されたもので溢れている。しかしその文化的世界と、ただ開示され続けるだけの世界は、雑にいえば「システムの欲求というフィルタ」を(幾分なりとも)経たか経ないか、という違い/隔たりがある。

例えば植物群落には植物群落の、木には木の、石には石の、水辺には水辺の、春には春の、秋には秋の、何らかの生命的なものにはそれの、何らかの非生命的なものにはそれの、動き方ややり方があり、そこに訪れたもの/出会ったものに、何らかの意味に落とし込まれる前の情報のゲシュタルトを開示するのではないのか※4。

※4:webデザインとか服装とかインテリアとかエクステリアとかで、ナントカ感とか○○な雰囲気あるとかいってるのってこういうのぽいよね。

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