2018年9月21日 - 80

メモ:情報なるものの伝播について

感覚情報の伝播システムが、[感覚情報源]-[感覚器官]-[感覚伝播器官]-[評価器官]、とあったとき、評価器官は「まさに評価するもの/評価プロセスそれ自体」としては姿を現さない。それは場合によっては魂とか人格とか呼ばれる領域かもしれない。

感覚器官や評価器官に情報が到達した時、そこではプレローマ的レベルでの現象伝播が起こっている。それが化学物質の伝播であれ、神経細胞の発火であれ、物理的波の伝播であれ。そこでは「情報」という空虚なもののみが伝播しているわけではなく、プレローマ的レベルでの現象がそれを運んでいる、というよりも、プレローマ的レベルの現象が情報そのものなのだ。ただし「無い」事についての情報は少し違うかもしれない。しかしそこにもシステム側が「期待」して現象伝播に対して身構えていた、という動作が空ぶった、という現象があるのかもしれない。

物事はプレローマ的レベルで起こる。解体、物理現象、化学現象。なぜなら情報は現実的な重みがあるからだ。情報は身を呈してそれを伝播させる。物理現象が情報を伝播するのではなく、物理現象が情報そのものなのだ。ただし「無い」事についての情報は少し違うかもしれない。しかしそこにもシステム側が「期待」して現象伝播に対して身構えていた、という動作が空ぶった、という現象があるのかもしれない。

物理現象は感覚器官や評価器官を破砕し得る。あるいはプレローマ的レベルでの現象伝播は感覚器官や評価器官を破砕し得る。例えば大電力が身体に流れた場合。すべてはプレローマ的レベルにある。と同時に、一部のもの(?)はクレアトゥーラ的レベルにもある。それは「同時に」あるのだ。クレアトゥーラ的レベルにしか属さないものは、煎じ詰めれば無いのかもしれない※1。

※1:ところでまた「完全にプレローマ的レベルにしかないもの」もあるのだろうか??つまり組成や組織が完全に無いものというのはあるのだろうか??ベイトソンが引いたようなプレローマとクレアトゥーラの境目は本当にあるのだろうか??両方の世界に属しているものはないのだろうか??


俺には、評価器官に対して世界がどう映るか、世界がどう訪れるか、という事が最も重要なことの一つなのだ。

評価器官/評価系は、ゲシュタルトの差や比のうちに、世界の様を見て取る。あるいは自己のホメオスタシスの様を見て取る。今こうしてやってきているものが、どこから、どのようにやってきたのか、という事を見て取る/見て取ろうとする。評価器官はそれ/その様の世界/その様相と出会う。それは抽象的に流れ込んでくる。しかし評価器官もまた抽象的なものなのだ。それらはある意味では同じリアルの様相のうちにあり出会い、評価器官が住まっている世界の様相を変えるのだ。そこで見て取られるのはまた、評価器官やその源流の感覚器官の精度や抽象度の程度にも依存するのだ。


ゲシュタルトのうちに顕われる幻、の本質、というもの。それが本当にあるかどうかは置いておいて。

ほとんど関係性に組み込まれていない世界というのは楽なものだ。例えば生命としての義務からの解放。

評価系から「意味」は発生する。それ以前には、意味が発生する土台はあったとしても、意味らしき意味はまだ発生していない。ただし評価系とはどこまでなのか、という話もある。

評価系にとっては、世界の事物は意味に抽象化/象徴化されていく。しかしゲシュタルトはずっとゲシュタルトのままでも居る。ゲシュタルト、評価系、意味。

複数の評価系同士の、互いのイメージの相互干渉。

生物/生命はゲシュタルトを評価する。

メモ


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