2019年5月19日 - 80

メモ:細胞について その2

リビドーは性欲動ではなく、おそらく増殖の欲動なのだ。細胞分裂や細胞増殖といったもの。細胞の欲動。接合、交換、分裂、などといった細胞の夢。多細胞になっても続くような夢。

欲しいのは溶解ではなく手応えだ。溶解は手応えまでに起きるプロセスのひとつであって、それがただ溶解のみで終わるなら、それはただの破壊なのだ。

Aにとって底がない場所とはAの解体が起きる場所だ。そこではAはAとして底に辿り着くことはないのだから。そしてAがある意味での「底」なるものに辿り着くかどうかは、そこで起きる解体が、受容的解体か、破壊的解体かによるようにも思う。

増殖のためには自分も相手も破壊する必要がある。接合、交換、変質と破壊、増殖。

細胞はすべてそもそも生殖的なのだ(というかそこでは生殖ではなく、単なる交雑と分裂だけが起きているのかもしれないが)。単細胞生物、遺伝的といわれる情報。孤独、共感、幻想、交雑、変容、新しさ、死、あるいは愛着や愛情、その回復。。。

勘違いがあるから類似物の(例えば遺伝的情報やそれに似たもの同士の)交換が出来る。

生命とは、自律的に自らの流路を形成してく動作群の事だ。

細胞同士が溶けて混ざるということなら、食と性と死と腐敗と増殖は似ている。ある意味ではそれらが生である。血の海、泥の海。そこでの生化学的反応たち。この辺りについていえば、何もかもは細胞の話か、細胞以前の出来事たちの話なのだ。それは単細胞でも多細胞でもそうなのかもしれないし、違うかもしれない。俺らは多細胞生物という個体なのではなく、一つの群体なのかもしれない。システミックにまとまった、ある程度不可分の、しかし群体であるもの。

複雑さ、外乱、生のごたまぜの中へいくこと(ある意味での詳しい話はこっち)。

闇とはまっくらけっけなのではなく、感覚が届かない世界のことだ。もしも環世界に対してAの感覚のすべてが届かないのなら、その世界はAにとって闇なのだ。いくら理論武装しても、そういう体験世界こそが基底にあるのだ。陰はみえないのだ。それはそれが示唆しえる全てでありえるのだ。あるいは示唆すらしないなにかかもしれないのだ。

細胞壁や細胞膜が出来たことで、四六時中の増殖活動、から細胞的生化学現象は隔離され、生殖時期と安定/成長時期が発生したのではないのか。細胞膜がある事で、増殖活動は遮られたり遅延されたりする。これはデメリットだ。しかし細胞膜がある事で、細胞は守られ、増殖活動が行えたりする。これはメリットだ。これは矛盾する。そこには柵が出来たのだ。それまで分け隔てなく増殖活動出来たところに柵が出来たのだ。ところでルソーが「柵が出来た時が文明が出来たとき」と言ったらしい(確か海辺のカフカに書いてあった)が、細胞膜が出来たのが、生命が、その矛盾を抱え始めたまさにその時ではないのか。

だからそういう意味では、生命は母体的環境ごと、自らの増殖的欲動をパッケージングしたのかもしれないのだ。それがカプセル/細胞だ。そうすると、維持的役割(カプセルの維持)を行う時と、増殖的役割(カプセルの解除)を行う時の、場合分け的状況が出来る。ところで増殖的な動きの根底には、ただたゆたいながら生化学的反応を反復するだけの動きがあるだけかもしれないのだ。その底は、もちろん(?)認識には認識できないものだ。なぜなら底の生化学的反応群に至ったとき、認識らしい認識はただの生化学的反応にまで解体しているであろうからだ。

ある意味では多細胞生物的な(?)生は維持と増殖の両方を望んだり夢みたりし、柵のある姿への愛着と、柵の崩れた姿への願望を、揺れ動くのではないのか。とはいってもそれだけでは、その夢には破壊や変容のプロセスが抜けているのだが。

永遠とは、剥き出しの生命/生命感の無機質さの事だ。人智どうこうではない世界。(物理的プレローマではなく)生物的プレローマ。

未生とは、カタチ(柵、細胞膜)が崩れながらも、生化学的反応をしている状態なのではないのか。愛着、願望、そして外界の厳しさ、乾燥。細胞膜のようなものが残ったのは、外界が原形質にとって厳しく酷い環境だからだ。それがなければずっとたゆたっていられたのかもしれないのだ。

メモ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です