2020年1月23日 - 80

確度について、シーケンスについて

■Sさんとの会話から抜粋

俺らの認識は「無際限かもしれないもの」に臨んでいるけれど、とりあえず得られた感覚情報を元に、あれやこれやを推測しながら「限界はこれくらいだろう」「区分け部分はこれくらいだろう」と見なして動作しようとしている、みたいな感じかなあと思いました。

まあでも多分、俺らは本質的には「無際限かもしれないもの」に臨んでいるので、とりあえずでも構築できた「定常的なものの見方/無際限さへの『ラベル』/判断停止して良いというシグナルの集まり/ひとまず真とされている風な命題群」が破綻するような状況になると「無際限かもしれないもの」をいくぶんか直視する事になって、あたふたするんだと思うのですが。

なんつうかちょい逆説的ですが「(感覚情報的には)世界が無際限でないという証拠などどこにもないから、世界は無際限かもしれない」という状況に、俺らは実は常にいる、的な話というか。

あとなんだろう、次の瞬間に何が起きるかを、可能性からいえば全く予測がつかないってことは、本質的には、全てのものが全てのものを表象しえる世界なんだろうなあ、とか。


結局次の瞬間、次のシーケンスに何が起きるか分からない、という事は、我々がいるのは確度の世界であって、そこに保証はない、という話だ。そしてもちろんこの「保証はない」という話も保証はない。。。言葉は、どうしても「ひとまず真らしい命題」を寄せ集めて語られるので、そういった「保証のなさ」を言葉だけで語るのは、おそらく原理的に出来ないのだ。そういう意味で、言葉の一般的な使用方法では、我々の世界との触れ方を語る事は原理的に出来ないのだ。言葉/真らしい命題/一定程度の確からしさや、それらの保証が消えていくところ、消えていく姿のうちに、我々と世界の接点はあるからだ。。。

記号は物語の断片のカプセルであって、物語の生成とはあまり関係ない。カプセルが割れるのもカプセルが生成されるのも、カプセルとは別な力による。我々は、世界との接点/物語の生成の場に実際臨み続けているし、そこと繋がり続けているのであって、カプセルのうちに閉じ込められているのではないのだ。とはいえ我々の一般的な語りは、カプセルを並べるような形になる。。。しかし重要なのは、カプセルが生成された契機であったり、カプセルに込められた契機の残滓なのだ。我々は、そういった契機のうちを生きている。生きているとはそのような事であって、カプセルを並べる事とは幾分かは違うのだ。

我々は「これはAというシーケンスのあとに、Bというシーケンスを示した。だからこれの内奥はこのようだろう」とか、「これはCの見た目をしている、だからこれの内奥はこのようだろう」という推測を行う。これは関数的な考え方だ。というかこれをベースにする以外に、我々には何も出来ないのだ。そしてこの関数は、いつ破綻するかは分からない。さっきまでBというシーケンスを示していたものが、次はFというシーケンスを示すかもしれない。我々は確度のうちにもいる。そのように、我々は世界あるいは事物への、関数と確度の幻想のうちにいる。。。その幻想のなかで、我々は無数の契機に触れ、何かを感じたり変容したり失望したりしていく。


我々は霧のうちで、顕れてくる現象/事物/幻想の姿を辿り、そこから、それがどういったものであるかを、関数を逆に推測するように、見出そうとしているようだ。

ところでまた、事物の運動に触れられるとき、触れられそうなときは、そこには目的はない。目的をたてたときの「過程」のようなプロセスがそこにはある。目的をたてたとき、過程は見過ごされる。目的がないなら、そこには過程はなく、運動や要請があり、それらの広がりと奥行きと手応えがある。。。そういうときにしか(しか、かどうかは分からないが、少なくとも多くの場合は)事物の姿に触れるのは難しいように感じる。我々は、おそらく目的の系ではなく運動の系であり、運動の系というよりも要請の系なのだ。非明示的な要請。移り変わる要請。その深部に、我々の根のありさまはあるように感じられる。

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