2016年8月1日 - 80

淘汰と組織戦略について その2

これもそもそもは相模原の事件を聞いて思った事っす。

まず、世の中には「競争」って言い方がありますが、俺的にはこれらの多くは競争ではなく闘争です。

てのも、競争というのは似た個体が同一のゴールを目指さないと成り立たないもんだと思いますが、

てか競うのは個体でも組織でも何でもいいけど、全くもって同一のゴールを目指してる2つの何かって、

あんま多くないと思うんすよね。一番近いのが、一頭の雌をかけて争う雄とかじゃないかと。

そうでないのは、様々な個体が生存しようと行動する上で、たまたま競合する事になったものじゃないかと。

てことは、ここで競合する者たちが直面しているのは、

局所的には優劣かもですが、大局的には淘汰じゃないかと思います。

そして個体が、でもいいけど、ある群体や組織が淘汰に向き合った場合、

その組織にとって良い戦略は何かってのが常に問われるはずと思います。

それで俺の意見では、相模原の阿呆がやったような事は、

この戦略の練りが浅い者の短絡的な行動じゃないかって事です。

「弱者は淘汰されるべき」みたいな言い方がありますが、そうじゃない。

淘汰に向き合っているのはいえば俺ら自身であって、そこには淘汰されるべき存在はなく、

戦略的行動とその成功と失敗があり、そして戦略的行動の失敗の結果、

生存に失敗した存在が淘汰されるのだと、俺は思います。

そして仮にも社会における淘汰について話すとするなら、社会的弱者は淘汰されるべき、

という話には絶対にならないっす。なるのは「我々の社会は淘汰に向き合っているので、

生存するための戦略を選択し、行動なければならない」という事のはずです。

ここで俺が思うのが、短絡的に弱者を切り捨てる戦略を取る社会はその社会自体の生存確率が高くなるか、

という事です。おそらくそうじゃないんじゃねーかと。テキトー予測だけど。

俺的テキトー予測では「互助的機能」を含みながら運行していく社会の方が、何らかの危機が来た時に、

互助的機能による相互扶助的行動が取れて(それはそれで)生存確率高くなるんじゃないかと思うんすよね(※)。

互助的機能ってのは(合っているか分からない)一例ですが、こんな感じで

「社会的組織戦略の踏み込んだ検討」を欠いた弱者死ね的な意見は短絡的だと俺は思います。

 

※:あるいは生物学チックに言えば、現在の強者は明日の強者であるとは限らないので、様々な遺伝的リソースを社会の中に抱えて運行した社会の方が環境の変遷に強いって事になるんでしょうが、この生物学チックな話はドライ過ぎて好みじゃないのでちゃんと取り上げないっす。すまんw

 

もち、社会的なものにはキャパシティの限界があり、使えるリソースの限界があるはずです。

なんで、そのリソースを越えて「弱者」なるものを生かそうとする事は出来ないはずです。

その意味で「人の尊厳は無限大」みたいな事言ってるのも俺はくだらねーと思います。

リソースの限界以上はキャパ活用出来ないっす。その辺言い出したら戦略じゃなくて宗教ですわ。

 

なんで俺が思うのは、生き残る、あるいは淘汰を越える組織(戦略)のありよう、あるいは社会のありよう、

の突っ込んだ検討が成されておらず、上記二極に振れた短絡的な意見が多いのが、

この事件で「多くの人が亡くなった」事を除いて最も大きい問題点なんじゃねーかと。

話は初めに戻りますが、淘汰において起きている事を競争ではなく闘争と捉えた場合、

その基準を設けられたゴールではなく、自分の生き方として捉えやすいと思います。

主体はどっかにあるゴールや、競争相手ではなく、生きるための闘争をする自分自身だと。

だから自分が力をつければいいんだと、まあそんな思考に割となりやすいと思います。

てわけで、その1とほぼ同じこと書きますが、

「我々は限られたリソースをどう配分してどう生きていかなければならないのか」、

あるいは「我々の限られたリソースを配分して淘汰を越えていくにはどうしなければならないのか」、

という(哲学的な意味ではない)検討を社会的に尽くし、それに基づいて関係性の軋轢を受け入れ、

それを我慢し、またその恩恵を感じながら、大事だと思える事を実現するためのアクションを、

自らを生存するための戦略を行う主体と捉えながら行っていく事が大事なんじゃないかと俺は思います。

この話いじょー。読み返してアレだったら書き直しやすw

 

オマケ1:あーあと、組織に入るのが個の摩滅と捉える阿呆もいると思いますが、まあ別に自分と周囲を活かす行動を選べばいいんじゃないかと。考えなきゃいけない範囲が広くなるのは間違いないと思うけどね。あとクソみたいな組織もあったりするのも間違いないですが。

オマケ2:いずれにしろ自分でしっかり色々やろうとしたら、関係性の軋轢による負荷ってのは確実にかかるので、それを昇華するようなトライってのは必要だと思います。

暮らし方


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です