2017年12月3日 - 80
メモ:永続性について
永続的であるかのような、あるいは停止した風の記述をしてしまえば、生きたものの「永続的でないからこそ起きる、永続性をつなぎとめようとする運動、あるいはまた、永続的であろうとする運動」が記述されない(あるいは記述からそれらの運動が漏れてすり抜けていく)。なぜならそこには記述スタイルと記述内容とのうちに、言行不一致の矛盾が生じるからだ。しかしまた、永続的であるかのような記述で、生きたものの非永続的な運動を記述しようとする事もまた、非永続的であろう生きた記述者による、一つの試みだとも思える。。。
おそらく生きたものにとっては、永続性は幻想のようなものなのだ。ところで例えば、子孫を残すような事は、ある意味で永続性への試みに思える。それはもしかしたら、断続性を用いた永続性への試みなのかもしれない。
そこでは、一つのもの、一つの生命を永続させるのではなく、プロセスそのものを継続させる事に主眼が移っている。それは永続性への試みから継続性への試み、の変化だ。これは大きな変化だ。またそこでは「長持ちするものは、長持ちしないものより、より長く長持ちする」というトートロジーの実現が試みられている。ある意味では進化とは、それを目指した、世界への自己の生命の投企なのだ。
ところでその継続性への試みの核にあるものは何だろうか。それはプロセス自体の継続を試みているのだろうか。それともプロセス自体ではなく「プロセスを継続させるに足る方向性や意志」、いえば、場合によっては愛と呼ばれるものの継続を試みているのだろうか。あるいはその双方の継続を試みているのだろうか。
生命とは、増えるとか生長するとかいったものというより、自身のプロセスを繰り返そうとするものだったりするのだろうか。
永続性、死、早期の状態。愛、継続性、トートロジーを成り立たせる力。
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