2016年7月31日 - 80

淘汰と組織戦略について その1

タイトルにした事は時間が出来た時に書くけど、相模原の事件で思った事。

(当事者ではなく)偉そうな人が「人命は何よりも尊い」とか、あるいは阿呆が生きる価値の無い奴は死ねとか、

まあそんな事をいっているけど、そして俺はどちらかというと、自分で生きる方法を模索しない奴は滅んでよし、

という立場をとる事が多いので、その意味では後者よりなんだろうが、これは前者も後者も間違いだ。

この二極に振れる前に、我々は限られたリソースをどう配分してどう生きていかなければならないのか、

という(哲学的な意味ではない)検討を社会的に尽くす必要があるはずだ。

その社会が大きいか小さいかはケースバイケースだろうが、

その検討を行わないところに社会的意識は、そして社会は無いと言ってもいいと俺は思う(※)。

 

※:私見だが、ある社会をどう形成していくかを検討する意識で無い意識は、それが社会性を前提にしていたとしても、社会的ではないと思う。例えばこの社会では力関係が俺のが上だからあいつを殴って良しみたいなのは、ある社会的関係性を前提にしてはいるが、その関係性に対して上記の検討を行っているわけではないので、社会的な意識とは言えないと思う。言ってみればそれは、社会性を前提にしてはいるものの社会あるいは関係性ではなく自己の利得を追求する意識であって(つまりその利得が社会あるいは関係性にとっては不利益であっても構わないという意識であって)、社会性を前提にしてその関係性全体にとって良い戦略を考察し、その関係性を良いと思われる方向へ(自ら苦労しながら)動かそうとしていく意識ではない。言えば、他力本願つうか、自分でやらずに人に働かせていいとこもってけばいいや的な意識でなく、何らかの関係性を運行させてくために自分で負うものを負って行動してくんだ(そしてそれには限界があると弁える)って意識が、社会性に関連づいた意識だと思う。

 

自分と他者を含む社会的組織が、限られたリソースを活かして、いえば幸福になるための方法を模索しないなら、

それは、他者と共存する意識や、リソースの限界の想定といった要素が欠落している。

大人―労働し、また自らの労働力やそれによって取得できるリソースの限界がある事を理解できる者―であり、

また社会性がある―自分と他者とが何らかの形で共存する事が否応なく求められる場所で、

そこで関係性の軋轢を我慢しながら、またそこで同じく関係性の恩恵を得ながら、

前を向こうとし続ける者である―なら、そのような検討を行う事が必然的にどこかで生じるものだと思う。

それを行わない者はいえば幼児であって成熟した大人ではない。俺が思うのは、繰り返しになるが、

この幼児的な、あるいは幼稚な二極に意見が振れる前に俺らがやらなくてはならないのは、

我々は限られたリソースをどう配分して生きていかなければならないのか、

という(哲学的な意味ではない)検討を社会的に尽くし、それに基づいて関係性の軋轢を受け入れ、

それを我慢し、またその恩恵を感じながら、大事だと思える事を実現するためのアクションを行っていく事だと思う。

まあ俺も出来てないってか、そうじゃない事ばっかやってきた愚か者なんで、こんなんよう書くわって感じなんですが。

しかしこういう方向性でやらないとなって事で、書くだけは書いておきました。

まあ俺は、ずっと阿呆のままじゃアカンので。

暮らし方


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