2017年2月19日 - 80

メモ:生きものがいる場所について その3

■約束事/言葉のはじまりについて、認識の底について

ある約束事のはじまりは、ざっくり予想だと、(生きものにとっての)世界のはじまり、認識のはじまりと起点を同一にしている。すげー近いだけでちょっとくらい違うかもだが。

ざっくり考えると、認識が開始される→世界が認識され始める→それが世界の姿の認識として立ち現れる→世界はそのようなものである、というふわっとした約束事(にもなってないような、約束事の端緒みたいなもの)が立ち現れる、みたいな感じかなーと。ざっくりイメージなんで適当ですが(^^;)

おそらくそこには、推論すれば、認識が開始されるための「認識の基盤」があったのだろうが(そしてそれが「ウロボロスの胴体」なんだろうが)、認識は自らの基盤であるそれを(多分)しっかりとは/明示的には認識できない(おそらくそれは盲点/どこから見ても見えない場所/それゆえに明示的には中々気付かない場所のような形で提示される※1)。

※1:なのでそれを探すには、自分の盲点を探すような作業をする事になる。多分ねw

まだこれは俺よくわからんけど、そのように、約束事というのは、認識とは独立した、例えば「ヒトの」「文化的な」機構とかではなく、認識の端緒の領域と端緒を同じくするのかもね、と思ったりはする。まだよく分からんが。まあでもこれがざっくりでも合ってるなら、約束事それ自体、というよりも、約束事の端緒からは俺らは逃れられんかもね、とも思う。この辺も重要ぽいならそのうち追っかけます(`・ω・´)ゞ

■心について、意味について

世界が自分にとってどのようなものであるか、というのが生きものにはある(多分ね)。魚には陸上はきついだろうし、俺には水中はちょいきつい。外界が自分にとってどのようなものであるか、というのは、生きものによって多分異なる。その外界の認識というのが、ある面では心のありようになる。世界が単なる物理ではなく物質ではなく、自分にとって快不快、好感嫌悪などの作用をもたらし得る領域だという事と、快を快に、不快を不快に感じるその感じ方というのは、世界をただ単に物理や物質として生きていては生じない。

その、世界が自分にとってどのようなものであるかという認識、あるいは認識という機能にすら至っていないもっと原初的な反応、の系が、おそらくは「意味の系」のはじまりであり(それは「意味の系」というようなものには程遠いかもしれないが)その面で心のはじまりみたいなもんじゃねーかと(乱暴ですません)。

その意味では、生きものは、明示的な参照表を使わないとしても、自らの認識の要素として、世界を快要素と不快要素に区分する等の参照表的な認識の姿を取っているのかもしれないとは思う。いえば、参照表は、世界と生きものの関係性から独立した、例えば「ヒトの」「文化的な」機構とかではなく、もっと原初的な領域にその端緒があるのかもね、と思ったりはする。これもよく分からんけどw

これもまたざっくり方向でも合ってれば、参照表それ自体、というよりも、参照表の端緒からは俺らは逃れられんかもね、とも思う。何かこっちは逃れられそうな気もちょいするがなぜだwこの辺も重要ぽいならそのうち(ry。

メモ / 日々


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です