2017年3月5日 - 80

メモ:構造/構成について その1

長い事技術書以外の本買わなかったけど、この頃2冊買いましたw

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」と「現象学という思考」っす。どっちも現象学関連。

どっちもまだ全部読んでないけど、非常にいい感じです(「現象学という思考」が文章が平易で読みやすくて、しかも内容はしっかりしてるので興味あればお勧めw)。

俺がやろうとしてきた事の一部(といってもめっちゃ大事な一部)がここにある、という感じがする。

こういったものも手掛かりにしながら、自分のペースで、(自分自身の)経験のうちに降りていこうと思います※1。

※1:自分自身の経験、というよりも、経験というのは自分自身(のような認識)に先立っているとは感じるが。だもんでこの辺はちょいちゃんというなら「自分自身というあり方も立ち現れてくるような経験のうちに降りていこうと」みたくなると思う。言葉遊びじゃないよ。


俺のざっくりした意見では、おそらくこの「自分自身というあり方も立ち現れてくるような経験」てのがはじまりの場としてあって、そこから立ち現れてくる無数の観念や想念のようなものであったり、そこに生じる情動や感情のようなものを契機として、俺らは認識世界を構築して、それを現実という事にしている。

この立ち現れ方、ってのがどういう感じなのかはゆっくり探っていこうと思ってる。俺的にはそれでOK 🙂

それを「はじまりの場」というなら、はじまりの場からはじまって、そこから構築された認識世界の上に構成されるいかなる概念によっても、はじまりの場を覆い、捉え、閉じた形で説明する事は出来ないはずだ。

自我とか認識とか、そういうものの起源が俺らのうちにあるとするなら、その起源はただ原初的な経験が生じては流れて来る暗い/昏い川のようなあり方であって、すべての世界観の源流ではあるけれども、いかなる世界観によっても基礎づけられはしない世界だと俺は思う。いってみれば、認識をウロボロスとして、何かを認識する事をウロボロスがそれを噛む事とするなら、ウロボロスは自分の本当の尻尾を(他のものを噛むようなやり方では)噛めないんじゃねーかと。

もちろんその眼で見える尻尾は嚙める。けれども、認識の姿の源流そのものである領域、眼の底、認識がそもそも発生した場所、そのような「眼では見えない尻尾」は噛めないと俺は思う。それは自分自身のうちの「自分自身というあり方も立ち現れてくるような経験」を感じて捉えるようなやり方でしか感じられない/捉えられないのではないか、と俺は感じる。

これについて何度でも繰り返し言いたい事は一つあって、いかなる科学的概念でも宗教的概念でも〇〇概念でも××概念でも、ありとあらゆる全ての概念は、この領域を基礎づけられないって事だ。俺らの経験は俺らのものであって(俺らのものとか言うけど、経験が自分自身に先立つ以上、あるいは経験とともに自分自身なるものが立ち現れる以上、あるいは経験とは自分自身の立ち現れに他ならない以上、自分が経験を「所有する」的な意味ではもちろんない)、その基礎付けを、俺風にいうならその土を、いかなるクソッタレ概念にも奪われるものではないって事については、何度でも俺は言いたい※2。

※2:その意味では、この「その土はいかなる概念にも奪われない」という言葉も、土を奪えない。いってみれば、本質にある/あり得るのはある種の不確実さの感覚(言い方は強いが、疑いといってもいい。あるいは、何かに規定されるわけでもない体験そのもの/原体験)が生じ得る、余地/領域/ありよう、あるいは(経験そのものでしかなく、輪郭が判然としない)俺ら自身の姿だ。だから全ての疑い、全ての可能性が生じる。認識の起源に、認識は直接的には辿り着けない(間接的には、つまりヒントをもらうやり方からなら推測できるのかもしれない)。そういう領域から認識は生じている(雑にいうなら、俺は俺が何者かという事を、眼で見るように知る事が、多分原理的に出来ない※3)。いえば自分自身の世界の底には(ウロボロスが普通のものを噛むようには)辿り着けない。ほいで、底に不可知的な源流がある以上、全ての可能性/全ての疑い、が生じ得る※4※5。

※3:原理的な姿と程度問題とのミックスもいえる。その程度は、より源流に行けば行くだけ、認識は組み上がっていない状態になるし(源流に至った時点で認識は全て解体されてると思う)、より源流から遠ざかれば遠ざかるだけ、認識は組み上がった状態になる、という、比例の逆みたいな関係に依存すると思う。より低レイヤーの情報をゲットするには、より低レイヤーにいかないといけない(そのためには高レイヤーをある程度崩さないといけない)的な。俺予想ではって事ですが。ちなみにここに原理があるかないかってのも客観視できる様な事じゃないので「原理的に」って表現は正確に言えば間違いっすw

※4:いってみれば、認識の底、自我の底、夢の底は同じ領域だ。俺はこの現実が夢か夢でないかを判別する事が出来ない。それは雑にいえば、現実を認識する事の底と、夢を経験する事の底が、おそらく同じ場で、同じありよう/姿で起きているからだ。同じく雑な予測でいえば、俺らは夢の曖昧さと同じ曖昧さの上に、そのような土の上に、なんとかかんとか立っているのだ。

※5:その意味では、ここは、論理を含めた全てのルールが破綻し得る可能性のある世界なのかもしんない。この辺は重要ぽいんでちゃんと追います。


ところで、構成や構造について「現象学という思考」の中でかなり言及されている。例えばこんな感じ。

「われわれが通常『物』としてとらえているのは、物が示す様々な現れのシステマティックな構造であり(中略)『物』とはそのような規則的な変化のシステムに付けられた符牒のようなものであり、その実質は、流れる現象の豊かな多様性がとるシステマティックな構造である、と言うこともおそらく不可能ではないだろう。」

この辺が、認識的な現象を、時間座標みたいなクソな考え方(なぜクソなのかは上記)をベースにした捉え方ではなく、現れの流れとして捉えていてめっちゃ良い。また俺が「はじまりの場」とか「暗い川」とか書いたような事も、以下のような感じで言及されている。

「自我が成立した時点から見れば(中略)自我が自我になる出来事は、隠蔽され見えなくなっている。それは、自我がはじめて自我になる出来事だから、まだそれを『自分のもの』として占有しうるような自我はそこにはいない。だがそれでも、そこには経験があり、現象がある。」

こういう感じの話がちゃんと出来てそうなのは非常にいい。俺的には。俺は今でもベイトソンは好きだが、ベイトソンの話は、時間座標みたいなものを想定しながら世界の諸々の出来事を話している感があって、俺にとってはそれが停止した時間の表され方であって、その意味で、ベイトソンの語る世界はなんかちょっと停止してる感、動きが無い感があった。

そうではなく「時間」という硬直した概念に押し込められる前の、動きのある現象の流れとその経験の姿を失わないあり方においての話でないと、俺的にいえば「生きものが生きる場所、死ぬ場所」の出来事ではないように感じる。

ただところで、この2冊ぱらぱら見てる感じだと、自己-他者-間主観性、みたいな話に行きつきそうで(全然ちゃんと読んでないから、これはほんとに気のせいなだけかも??)、そうなると極論全部相対的ですよね的な話が待ってそうで、個人的にはだけどそうなると狭い小さい話に終始しちゃうんじゃないか感もある。

これは全く個人的な好みだけども「流れる現象の豊かな多様性がとるシステマティックな構造」とかの視点があるのだから、ここから世界(特に自然世界)を見渡した時に、世界がどんな姿か描いてみてもいいんじゃないかと思います。ベイトソンはそういう広い視点は持っていて、それはすごく好き。

俺よく知らんけど、構造主義生物学とかそういう試みな印象もあるけどね※6。というかゲーテとかダーウィンとか出てくるぽいので、割とベイトソンと親近性があるのでしょー。多分。

※6:あんまよく知らん俺の印象だと、構造主義生物学って「形がある」って捉えてるみたいだけど、俺のイメージだと「形を生み出すダイナミズム(拮抗、均衡、運動、破れ、生成、みたいな)※7※8がある」みたいな感じなんすよね。単に「形がある」って捉えるだけだと、すげえ静的な世界にしかならんような。。。

※7:俺はダイナミズムって言い方するけど、これもまたおそらく「時間座標」みたく硬直的な/外部的な捉え方な印象もある。これについてはそういう捉え方じゃない捉え方を自分なりにちゃんと追ってみたい。

※8:じゃあダイナミズムを生じさせてるものって何だよ、みたいな話にもなるだろうけど俺も良く分かんないっす。ただ「重さ」ってのは重要かなーって思ってる。ここで書いても文脈的にイミフですが(それ以前に俺の中でもイミフなんですが)俺的には「虚無にも重さがあったのだろうか??」ってのがこの辺りについて疑問なとこっす。


同じく「現象学という思考」の中にこんな文章がある。

「『物が確かにある』と思われるとき、その信念を支えているのは、物の現われの規則的な構造であり、そのような現われと身体との、これまた規則的な構造であった。」

俺的には、認識の俎上に上がるのは、自分が経験して知覚された無数の現象だけでなく、その無数の現象が示す情報ベクトルの力積なんじゃね的な事を考えてきてた。これってアフォーダンスをちょいかじって、それを我流で組んでいったとこのものだけど、俺が追ってってたのは現象の姿が俺にとってどう見えるか、ってとこだから、まあこういうとこともつながるよなー、って感じっす 🙂

あと差異が情報でー、みたいな話も出て来たんで、この辺はベイトソンと被るかもねw

まあなんか、自分で見ようとしてきた色んなことが、少しつながってきたかもな感じっす。


タイトルに付けた構造とか構成ってあるけど、そういうのをどう書こうか困ってます。形相(エイドス)とかでもいいのかもしれない。形相ってこんなとかこんな感じらしい。原義は置いておいて言葉の表現として使いやすそうなんで、我流で使うかもっす。具体的には動的/可変的/流動的な構成/構造であったり、動性/可変性/流動性のうちに見られる構造/構成を表すのに使いたい。「構造」「構成」だとなんか静的で停止した印象になるもんで、もっと可変的で動きを持った構造/構成って感じ※9。学者とかじゃないんで、その辺はある程度自分がやりやすいようにやるつもりです(´∀`*)

「現象学という思考」の中ではこの辺(の深めのとこ)が「『絶対的に確かなもの』を固定的な定点として確保した上で、それに立脚して構造物を積み上げていくような働きではない。むしろ、固定的な定点を最初から設定することなく、たえず流動する相互関係のなかで、一つの構造が立ち現れ、それが様々な経験のなかで自己自身を修正し組み替えながら、自己自身を発展的に維持していくような出来事である。」とか表されてて、俺的にはめっちゃいいと思う※12。

※9:例えば川というものは、水をただ水とだけを見ていたら無い。高地から低地へと流れ続ける水の流れを見た時に、そこには水だけでなく川がある。じゃあ川があったら、その流れは変わらんかというと、台風の時には激しくなるだろうし、時間が経てば少しずつカーブが急峻になるかもしれん。なので、川の姿も一様ではない。だけど水が流れているその様は変わらない。そこには移ろい続ける川の姿があり、同時に移ろい続けて変わらずに川としてある水の流れがある。いえばそこには移ろう姿の内に現れる構造がある(いえば「川」と呼ばれるのはその構造だ)。そしてまた大きく地形が変わって川が干上がれば、そこに現れていた構造も消えてなくなる。こういうダイナミックな構造※10をとりあえず形相って呼びたいなー的な感じっす※11。まあ呼ばないかもwもっといい表し方があればそれ使うし、なんつうか試行錯誤しながら行きます。

※10:俺らが例えば季節の移ろいの姿の先に見るもの、誰かの立ち居振る舞いの姿のうちに見るもの、文脈と呼ばれるもの、空白の意味と呼ばれるもの、ビル群を見上げて感じるもの、雲が払われて空が青くなった時に感じるもの、そういうものは(雑にいってしまえば)皆こういう形相の現れては消える姿であり、その姿から感じる/励起する/励起させられる俺らの暗黙的あるいは明示的な感情や感覚やありようだと思うがね。

※11:上の方で書いた「情報ベクトルの積」と同義といってもいいっす。ある意味ではこれを(極めて広義の)アフォーダンスっていってもいいと思います。ただベクトルの積だと矢印ぽいイメージで、構造的なものを表すイメージにはならないから、形相っていってた方が使いやすいのかもしんない。

※12:この辺(非主題的な現象)に関する意識の働きを、ベイトソンが学習と呼んだ辺りの話と紐づける事は出来そうな印象がある。合ってるかは不明。


動性/可変性/流動性のうちに見られ、かつそれ自体が動的/可変的/流動的な構造ってのは、全く特別じゃなくて身の回りに無数にあるように俺は感じる。

ざっくりいうなら、全ての(極めて広義な意味で)文脈と呼べるものは全てそれだと言ってもいい。視覚に入るもの(明暗、色相、奥行き、重なり)が示唆する言葉にマッピングされ難い印象/メッセージ、音楽や物音のそれ、風の流れや温度や湿度や匂いが伝えるそれ、等々。またそれらが複合的に重なり合う事で生じる印象/メッセージ。あるいはその印象/メッセージによって明示的に示されない事によってこそ示される印象/メッセージ、等々。またその印象/メッセージの出現と消失によって発せられる印象/メッセージ、等々。。。

そのような、言葉にマッピングされ難い(生きた世界の、あるいは土の上の)意味の重なり合いのうちに、俺らはそれのありように触れ、応えたり応えなかったりしているんだろうと思うがね。

これは例えば、目に見えるものが全てではない的な話しではないっす。そっち系の言い方をするなら、目に見えるものの無数の重なりのうちに読み取られる、奥行きのある無数の印象/メッセージがあって、俺らはそういうものが自覚/無自覚によらず取り交わされる世界にいるんじゃね、的な話っつうか。分かりやすいとこで化粧とかもそうだと思うしな。あれは雑にいえば、顔にペタペタ色を塗る行為じゃなく、何らかの印象/メッセージを伝達する可能性を目指して無数の色や陰影を顔に施す行為だと思うがね(´∀`*)

「現象学という思考」の中では(今回こればっか書いてるなw)この辺は、「物がわれわれに現れるということと、物がわれわれにさしあたり現れていないということとが、同じ一つの構造の契機として、システマティックに捉えられるとき、『物そのもの』よりもその現われの構造の方を、われわれの経験は確固たるものとして把捉している」とか書かれてる(この本まじでいいな)。

ただこれについては、俺としては、物がある/ない、ではなく、もっと広義なものだと思う。例えば神社などで、等間隔に置かれながら先へと続く石、が示す社への奥行き。それを囲む木々が示す生活的/日常的な空間とは姿を変えた空間の様相、社の明るさと暗がり、そういったものが示す無数のコンテクストの(情報ベクトルの)重なりや重ならなさのうちに、ここがどのような場所であるか、という事が、言葉によらず※13示される、そのような事がある。

そこに「これが神社!!」という実体的なものがなくとも(社がそれに一番近いんでしょーが)、そういった情報ベクトルが織り合わさり重なる、そのうちに、あるいはベクトルが示す内奥に、あるいはそのシステマティックで移ろう構造のうちに、神社なるものを見出したり経験する、ってもんだと俺は思うがね。そしてそれは、そこにたまたま神社という名前が付いたからそれは神社として経験される構造なのであって、しかし名前の無い光景/風景のなかにでも、そういったシステマティックな構造の織り重なりはあって、その奥行きや広がり、あるいは窮屈さ、明るさや暗さ/昏さ、等々は、名前はなくとも経験される「構造的な/構造としての実体」っていっていいもんじゃねーかと俺は思う。まあベタですが夏祭りの雰囲気とかなんすかね。和風多いなwなんでもいいんだけどさw

※13:言葉もいえば情報ベクトルの一つのやり方/様態だ。しかしその様態は、言葉に限らずありとあらゆる、っていっていい位にあると思う。例えば書かれた古代風の文字は、それが読み取れなくても、読み手に対して印象/情報ベクトル/移ろうシステマティックな構造の一部、をアフォードしている的な、こう※14。

※14:そこにどんな文字が書かれているのと、文字としてなんと書かれているのかって、いえば別の情報だと思うんだぜ。


「現象学という思考」の中で自我についても触れてた。これどーなんだと思ったとこもあるけど、ここはめちゃ素晴らしいって記述があったんで抜粋します。この本まじでいいな。

「(自我が)同じ形をとるからといって、そこに実体的なものがあるとは言えない。水の流れが渦を巻くとき、そこには統一的で静止的でさえある一つの形が現れるが、流れがなくなれば、渦もまた消えてなくなる。流れのなかに生じる渦のように、自我もまた、現象が流れることによってそこにはじめて立ち現れる一つの構造であると考えれば実体的な自我が背後に持続していると考える必要はなくなる。」

俺的には色んなものってこういうとこあんじゃね??って思うよ。実体や「イデア」みたいのがあるんじゃなく、現象の流れのうちに生じる、移ろいのある、しかし確かにその時は示される/生として生きられる構造/現象※15※16、の混淆っつうかさ※18※19。

※15 :この辺をガチンコで掘り下げると、命ってなんですか、って問いには(会話としては)こたえられるかもね。もち行動として応えられるかは全然別やで。

※16:自己組織化系の研究※17って、この辺りを理系的っつうか客観的っつうか、俺に言わせれば現象の本質自身には決してたどり着けないやり方で、知ろうとしてたように感じるがね。それって、示唆は極めて多いと思うけど、最終的には得られるものはないと思う( *°∀°)و

※17:これは面白かったっす。上では文句??いったけど、でもやっぱ挑戦的な試みだと思います( *°∀°)و

※18:この辺と関連ありそうな表現でいうと、ヘルシングの「死ねや 死ねや 人間は歩き回る陽炎に過ぎない」とか非常に好きなんですが( *°∀°)و

※19:現時点でだけど個人的には、めっちゃざっくりいうと、宇宙とかも、神様が宇宙作ったとかじゃなく、新生と破壊を繰り返す動的な構造があって、その構造の動性がどうもたらされ、どう広がり、どう滅び、またどう新生するのか、ってのを追っかけてくと、宇宙ってどんな感じで動いてるのか分かるのかなー??って思ってる。それで構造の動性をもたらす辺りに「(虚無の)重さ※20」ってのが関与してんのかなー、みたいな。めっちゃ外れてるかもだけどw

※20:いきなり(虚無の)重さとかいってもイミフだと思いますが(;・∀・)まあこの辺は全く分かってないんで、ゆっくり追います。今の俺の宇宙観はプリミティブ過ぎで実際の感覚に合ってないと思うんで(;・∀・)

メモ / 日々


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