2017年3月21日 - 80

メモ:構造/構成について その2

ものごとの重層的な折り重なりが何らかの(自己に対する)作用を指し示す、という事はあると思う。

例えばある情景そのものや、それを伝える描写。左右の広がり、奥行き、暗がりや明りの連なりや重なりや見え方、ほこりや土や生きものの匂いの有無、空気の乾き方や湿り方、空気の動きに伴う無数の温度や水分の動き、息遣いやかすれ音や物音の有無、あるいは音の吸収のされ方、等々。それらの無数の折り重なりが「そこが自身にとってどんな場所であるのか」をそれが提示しうる姿として明確に、しかし一切の言語的な表出を伴わずに提示する。

あるいは言語もそれを指し示し得る一つの指標であって、しかし全てではない。例えば、柔らかく明かるげな言葉とは裏腹な物腰であったり見え隠れする訝しさや危うさ、あるいは、不愛想な物言いと逆に示される気遣い、いったものは、言葉と、言葉以外の態度という、表出される無数のメッセージの折り重なりが、その者が自身にとっていかなるものであるのか、という事を言外に指し示している。ここでは言葉は、言葉通りの働きではなく、その他の態度との齟齬から、その者がどういった者であるかを指し示す、一つのメッセージの断片として機能する。

そしてまた、言葉の折り重なりもそのような事が可能だと思う。例えば小説のような文章で、なぜある出来事が起きたのか、それに至る心情、情景、出来事、等々の描画、そして空白、そういった事の果てに指し示される「何か」があるとして、言葉もまたその折り重なりによって、それを示し得る。というかおそらく、そうでなければ、起承転結でも何でもいいけど、ストーリー/展開なんてものはあり得ない。あるいは作家が「この本によって私は人の弱さや強さを書き表そうとしました」といってある本を書くとき、そこに一切の「弱さ」あるいは「強さ」という語がなくとも、ストーリーの果てに、あるいはストーリーのさなかに、それは見え隠れしたり、現れたりし得ると俺は思う。そのような形で、言葉も(言葉れ以外のメッセージでもいいんだけれども)そのメッセージ一つではなく、その連なり、折り重なり、欠損のうちに、透過的に何らかのメッセージを提示し得る、と俺は思う。

そこで現れているのは、そこに感覚情報や文字情報(あるいは感覚情報を間接的に指し示すもの)として示されたメッセージだけでなく、そのメッセージの連なり、あるいは非連続、食い違い、噛み合い、等々といった、感覚情報の(メタ的な)関係性だといっていいと俺は思う。むしろ俺らは、無数の感覚情報だけでなく、そこにメタ的な関係性、またさらに「感覚情報+メタ的な関係性、の関係性」であったり「メタ的な関係性同士の関係性」等を感じ取るうちから、そこがどういった場であるか、目の前にいる者がいかなる者であるかを受け取ろうとする(そのようにメッセージの連続性や関係性からそれがどのようなものかを受け取るので無ければ、出来事は俺らにとって像を結ばず、ただ単に俺らを通り流れていき、俺らはここがどのような場所であるか、目の前にいる者がどういう性格/性質のものかという事にアクセスしようが無いのではないか)。

また俺らはおそらく、提示されたメッセージの断片性から、ここがどんな場所であるか、というのを推測/推論する。一見安全風な場所の違和感からここが危険な場所だと見て取るとか、あるいは、小さな行き届きから心遣いのある何者かが手入れをしている場所であろうとか。そこにはメッセージの(おそらくは断片的な)構造/構成があり、俺らはそれを受け、一つ一つのメッセージではなく、その折り重なりの構造/構成のうちに、一つ一つのメッセージでは表しきれない抽象的なメッセージの形/姿を見出し得る。もちろんそのように、ある一つの姿にメッセージが収斂するとは限らない。ただ無数のものの断片以上のものではないかもしれない。ただそれにしろ、無数のメッセージ/(言語的な意味を欠いた)作用の断片として、それはその時の情景として俺らに提示されるのだろうと思う。

またそのメッセージの連続性や関係性の構造/構成も、動的に移り変わり、壊れ、また改めて姿を結び得る。それは固定的ではない。いえば、その構造/構成の移り変わり、破壊、新たな組み換えが起こり得る。そしてその構造の動的さのうちに、あるいはその構造の移り変わりのうちに見出される動性のうちに、俺らはその連続性や関係性の構造/構成が、(A)一つ一つのメッセージから成り立ちつつも、(B)その折り重なりのうちに奥行きを持ち、(C)またその奥行きが示される姿のうちに「その構造/構成の動性」という構造を見出し得る事がある、という事を受け取り得る。

もし俺らがその移り変わりのうちに、何らかの持続性/類似性/類似したものの再現性※1を見出すなら、いえば移り変わりの動性の奥に事物が移り変わってもキープされる何らかの姿があり得ると受け取り得るのなら、世界は俺らにとって(少なくともそこで見出される程度に)動性と持続性を、その奥行き/重なりのうちに(両立的に)示すものに感じられるだろう。

※1:ここに見出されるものが「固定された不変性」なのか「いくら変わってもそのうちに、ある構造の姿が動的に繰り返し現れ得る持続性」なのかでずいぶん違うと俺は思う。俺はどちらかといわず後者派ですが。そして後者も、誰にとってもその姿が現れ得るってもんじゃないと思うけどね。それを感じる、そこに踏み込める用意が出来た者にじゃないと、その姿は感じられないんじゃないかと※2。

※2:イミフかもしれないが、多分あってる。おそらくだけど世界が欠損した姿も経験した者っつうか※3。ちなみに俺もちゃんと向き合って踏み込めるのはこれからですが(`・ω・´)ゞ

※3:なぜなら欠損した姿も含めて、世界が示し得るメッセージの断片だろうから、というのが俺予測。「欠損していない状態」しか知らないのでは、その核にあるものをその目に捉えるためのメッセージが少なすぎる。両眼視差の比喩でいえば、両目があってはじめて奥行きが生まれるなら、欠損している状態もしていない状態も経験しないと世界はその奥行きをおそらく見せない。多分これは両眼視差のような事ではなく、世界の欠損が起き、そして回復が起きるという、ステップのうちに生じ、その先に/奥行きに見出され得るようなものじゃないかと思う。ただこの辺は俺もよく分かんない。


例えばある世界系から放逐/追放されたと感じる時に、別の世界系が受け入れてくれなければ心の居場所はない。ある社会系から、いえば現実的なものから放逐/追放されたと感じる時に、非現実的な系、いえば夢のフィールドがその者にいる事を許さないのなら、その者の心/精神はどこで生きられるのか。

人は夢の世界を持つ事を許されなければ鬼畜生になるしかない。ある社会系から放逐/追放されたと感じ得る時、その社会系がその人の根っこの場所だとしても、その根は酷く損傷しているし夢に行ってもその損傷は本質的には回復しないのだろうが、それでも、一時的にでも、夢に行くことが出来るというのは悪くない。もし夢がその者にいる事を許さないのなら、あるいはその者が夢にいる事を許されないのなら、その者の心/精神には居場所が無い。居場所が無いというのは残酷な事だ(そしてまた残酷な事が起きる場所にしかいられないのなら、自身が残酷になるというのが一つの選択肢として浮上してくる)。

夢のフィールドはあっていい場所なのだろうと俺は思う。そしてある社会系がそれを許容しないとしても、生きた世界は夢のフィールドを許容し得る事が往々にしてあるように俺は思う。それはまた別のひずみの起因になったりもするんだろうが、それでもそのフィールドがあり得るというのは、ある面では、生きた世界の豊かさの姿だといってもいいと俺は思う※4。

しかしまた、おそらくだが、責任は夢のうちに生じる。なぜならある現実性と、ある夢との区別の手法を、俺らはおそらく本質的には持たないからだ。だからどんな夢であろうと、俺らの責任はそこから生じ得るんじゃないかと俺は思う。

ここに書いたことはしっかりちゃっきり合ってないかもだが、重要だと思える事なんで書いといた。責任については少しずつ書けるようになっていきたい。あと関係性もかな。

※4:しかしまた残酷な事が起き得る事、夢のフィールドに逃げられない事も、同様に世界の豊かさなのだと俺は感じる。自らに都合の良い事が起きる事だけが豊かさではない。何らかの事が起き得るという事自体が、いえば豊かさなのだ。


あるメッセージが来ても、評価系や反応系がなければそれはメッセージになりえない。生きものとしてそれが自身にとってどういったものか評価出来たり、生理系として反応出来ないと、例えばシナプスのように物質を受容した時に発火出来ないとダメだ。なので「(物理的な意味ではなく)身体」を持たないものは評価系や反応系を持ち得るようには俺には思えない※6。世界がどのようなものであるか、という事が「身体※5」を欠いた記述法で記述出来るようには俺にはとても思えない※7。

※5:認識が起動するが、認識によっては十全に感知出来ない領域。あるいは認識にとっての土/ハードウェア※11。現時点の俺予測なので確定的ないい方じゃないっす。

※6:物理的な意味ではなく、というのは例えば、ソフトウェアの世界のうちに、その世界の事物を感じる身体を持つものがあれば、それはソフトウェアの世界のうちにメッセージを見出すのかもしれない。

※7:もちろんこれも合っていないかもしれない。しかし例えば、数学や物理学を行うものの「身体」とはいかなる姿だろうか。仮に「身体」がなくてもそれが成り立ち得るとしたら、それはどのように成り立つのだろうか??※8

※8:雑にいえば、何らかの「身体」から離れて「普遍的」な法則みたいなものが成り立つのか、って事といってもいい。その「身体」が「普遍的」と感じる/評価している、からそれは普遍的風なのであって、事物が毎度それを繰り返してる風だとしても、別にそれはたまたま毎度繰り返されるってだけで、実は「身体」に他の現象が与えられる可能性もあるから、実は可能性レベル/予期レベルでは「普遍的」ではない、みたいな事かもしんない。俺にもまだよく分からんです※9※10。

※9:でも「論理」も「『身体』に与えられた可能性の姿の一つ」なのかもしんない。あえてAかBかみたいないい方をするなら、その点から、「身体」は世界を論理的にではなく可能性的に捉えてる/受け取ってるのかもしんない(そういやアフォーダンスの俺的和訳って「行為可能性」「可能的関係性」みたいな感じだったような??)。

※10:あるいは生きた世界を欠いた知の体系というのが成り立つなら、それは誰にとってのだ、って問い方でもいい。

※11:ただし「身体」が「ハードウェア」だとしても、認識が「十全にソフトウェア」って事はないだろうと思う。そこはその二分法ではない。あるいは認識は一部がソフトウェア的であり一部は(感知されずらいにしろ)ハードウェア的なのではないか、という印象。


重要な事は、自分がある豊かさにアクセス出来得るんだという事が分かっている/与えられている事だ、と俺は思う。社会的な無数の価値より、いってみれば全ての記号的な価値より、それって大事なんじゃねーかと。意味のマップのどこに位置するかではなく、実感として物事の豊かさ(生、死、他者、性、良さ、悪さ、美しさ、残酷さ、貧しさ、眩さ、等々があり得る豊かさ)にアクセスし得ると感じられてるって事が。


これは別のとこに書こうとおもってたけどどこに書こうと思ってたか忘れたんでここに書くんだけど(T_T)、もし意識のあるロボットがいて、そいつは、そいつが起動する時の世界の姿を分からないのだろうと思う。その意味で、そいつに自分の設計図を見せても、それがそいつ自身を示しうる、とはそいつにとってはならないだろうと俺は思う。

なぜなら、起動時のハードウェアのや電気の動作はそいつの意識にとって「直截に知る事は出来ないけれど、あるいは十全に知る事は出来ないけれど、自らがそこから立ち現れる領域」となる。多分ね。

ほいで、その「自らの根が自らにとって直截に/十全に知る事が出来ない」だけど「(「自ら」なるものが起動すれば)世界は認識出来る」という、そいつ自身にとってのそいつの認識の姿と、設計図に書き表されたような「自らがそこから立ち現れる領域も(外部者として)直截に認識し得る」という認識のあり方は異なるだろうから。

あるいは、いえば、設計図に書かれたのは、設計者/外部者の視点から見たそいつの姿であって、そいつが立ち現れ、そして感じられる世界の感じられ方、を通して形作られる「自ら」なるもののありようじゃないだろうから、てのが現時点の俺意見。

メモ / 日々


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