2017年4月30日 - 80
メモ:生命について その2
生命にとって、あるいは生体にとって、世界の姿は定まっていない。それはダックタイピングのようなものかもしれない。ダックタイピングが「もしもそれがアヒルのように歩き、アヒルのように鳴くのなら、それはアヒルである」というように。
ある生体にとって、Aが振る舞う仕方で振る舞うものはAであり、Bが振る舞う仕方で振る舞うものはBなのだ。そしてこれは、いわゆる言語的カテゴライズに依らない。あるものが言語的にどう名指されていようと、それの振る舞いが、ある生体にとってある感情、感覚を引き起こすものなら、それはその生体にとってそのように感じられるものなのだ。
だから生体は、例えば一部の虫や海洋生物は光がある場所が良い場所だと感じて誘われて罠にかかるように、あるいは人がただの紙に乗った色でしかない絵に心を動かされるように、一種の勘違いをしながら世界を捉えようとしているのだ。例えばAに酷く似たもの、A以外に見えないもの、Aのように感じられるものはおそらくAそのものあるいはその先にAがあるものだろう、という勘違いだ。それと、単なる言い換えかも知れないが、Aに付属するものが直接的間接的にAを示す(これは一種のフェティシズムや、故人の写真への思いとかがそうなんすかね??)、というような勘違いだ。
そういった手掛かりと、その手掛かりの重なりの示す抽象性が、生体にとっての道標なのだ。逆に言えば、おそらくそのような道標(あるいは勘違い)の先に、情報の折り重なりの姿を見出そうとしながら、生体は行動しているのだ。あるいは、そこに見出される情報の折り重なりの姿そのものに時に触れながら※1、生体は行動しているのだ。
その姿とは、おそらくは、先に書いたような個々の生命/生体が生きる世界にとっての、その意味での個々の生命/生体にとっての、現象の(折り重なり/織り重なり、あるいはそれが描く核心の)意味/機能の姿なのだ※2。
※1:ごく浅いレベルの(そして感情面での)話をいえば、生体はそうして、喜んだり失望したり希望をもったり愕然としたリしているんだろう。全ての生体に感情的なアレがあるとはあんま思わないけども。
※2:この辺追っかけてくとベイトソンがいったような「差異」の話が出てくるかもと思う。差異についてはどっかでちゃんと考えときたい。
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