2017年5月5日 - 80

メモ:生命について その5

死、非生命への還元、というのは、ある意味では生命にとって、あるいは生きることにとって、本質的に感じる。ある意味とかかいてるけどどの意味かは分からんw

しかしなぜそれでも生命は生命活動をし、生きているのだろうか??ある意味では、安定状態からの疎外を自らキープしているようにも思える。しかしその安定状態は、本当に非生命における安定状態なのだろうか??それともここにあるように、退行の究極点であり生命発生以前の原初における安定状態なのだろうか??それはいえば原初的な生命のスープ※1みたいなもんで(エヴァに出て来たな、これとかこれとか)、非生命的な状態とはまた違うのだろうか??

※1:生命の起源的なアレにつては、今はスープ説じゃなく太古の海底下のアルカリ熱水噴出孔ベース説てのもあるみたいすね。てかこの著者の本面白そう。

フロイトがいってるのも、デストルドー※1的な死は、メタファーとしての死で、要するに退行の究極点です的な話って事でいいですかね。それとも退行ではなく、本当の死(退行ではなく、崩壊や非生命への還元)※8も、そこには含まれるんですかね。俺的にはなんとなくだけど後者の印象もある。

それはやはり、生に対置されるものって事でなく、生命活動が消えてなくなる領域という意味で、似たラインにあるものなのかもしれない。ただ、退行ってイメージにつきまとうのは、個人的なイメージですまんのだが、幼児的願望が全て叶う世界を望むようなあり方/願望だ。例えば、死んだら土になるんだぜーヽ(*゚∀゚)ノヒャッハー的な死にはそのイメージは俺的には薄い。

※1:これの、まずフロイトは1922年に『自我とエス』で、二種類の欲動の存在を語った。一つは性衝動あるいはエロスであり、「生の欲動(リビドー)」である。リビドーは、分解されて分子の状態になっている物質を、さらに複雑な生命体へと集合し、生命を保持しようとする。第二の欲動はタナトス、あるいは「死の欲動(デストルドー)」である。それは生命体を生命のない状態に分解する力である。生命体はこの二つの力のせめぎあいで成り立っている、てのががすごく伝わりやすかった。もち伝わりやすいからって合ってるかは分からんけどなヽ(*゚∀゚)ノヒャッハー

※8:これはどちらも「生からの解放」なのかもしれない。そして、個人的な意見だが、それを望むというのは、生きた/生きているものだからではないのか。生のストレスが苦痛で、そこから解放されたいと思う事があるとしたら、生きているからではないのか。ただこれはもち、話を生きた/生きている者だけの話にするための話じゃない。生きる事からの解放を望む事のあれこれを含みながら、それよりも大事な事があるだろうと俺は思ってるので※9。

※9:もったい付けた風にせずに書いとくと、どういう情報ベクトルを残すか、って事だと思ってる。どういう情報を伝達しようとするか、というか。


あるいは幼児的願望だとすると、自分の欲求や願望を全てだせる場所が欲しい、そうなりたい、という事なのだろうか??それは本当に死なるものを望んでいるわけではなく、これもフロイトの表現らしいが、早期の状態の回復/再現、ということではないのか??それって(ストレスの多い状態を離れて)動的平衡の状態、生きるための活動を、なんの隔たりも障害も不安もなく行うものになりたい、あるいはその願望、欲求、欲望をなんの隔たりも障害も不安もなく発露したい、という欲求/願望なんじゃないのか??※2

そしてまた、ストレスの多い状態を離れる事が、いえば生存闘争的な面もある現実から離れる事が、原理的に難しいから、それは例えば死(のメタファー)の希求、あるいは逸脱したような体裁の行動、を取りがちなのではないのか??

※2:ところでまたバタイユとかが好きそうな、生を使い果たすような死に方ってのは、これはまた話し的には違うんすかね??そういうのの願望のベースに生命現象としての願望があるとすれば、それはどんな感じなんすかね??生を使い果たしたい的なアレなんすかね??あるいは虚構ではない場所、虚構のはじまりの場所、虚構が終わる場所への願望なんすかね??※3

※3:ところでこれは社会的な全ての文脈が虚構って意味ならある意味分かるんだが、そうじゃないとこ、社会的な文脈を全て取り外したとこが良いって事なんすかね??それだと生きるためには社会的である必要がある者にとってはジレンマっぽい面が出て来そうな??それともそれは、めっちゃ飛躍するようだけど、自分が何かに出会えているってとこを望むって事なんすかね。言い換えれば全ての(?)社会的文脈は多かれ少なかれ「自分」は埒外だからさ。何らかの社会的集団の構成員であったり、何らかのルールに基づいた集団の構成員である事を求められがちというか。そのような場所では「自分」は埒外になりがちで、その分「自分」自身として何かに出会いずらいというか※4。多分そういう文脈が壊れていく場として、廃墟とかっていい感じなんだろーなとは思いますw俺が植物多くて人気が少ない場所が好きなのもそういうのもありそう※5。そういう意味では俺らは文脈(暗黙のうちに要請される事柄の束※5)って常に感じてそうな。。。

※4:ところで個人的な事をいえば、数多くの社会的文脈を無しにしてもこいついい奴だなって思える奴としか人間関係って続かない気がする。

※5:それはすごく素朴に言うと、過度な緊張などを起こさずに自分が自分でいられる場所、って事なんすかね。ちなみにそういう場所っていいよねってのは半面の話しで、もう半面で、そういう場を作るには戦う事も必要って話になる気もするけどさw物事に出会うのも戦うのも自分で出来ないと自分にとってリアルじゃないし、もっといえばそこに自分はいないからねw

※6:もち俺は要請される事柄の束に必要性を感じないものが少なかったり、大事なものが大事にされてる感あるのが好きですwあと空気読めとか知らんわ。そういう事いう奴はまず空気読みたくない奴の空気を読んでねw※7

※7:余談ですが、これについては「空気を読むな、風を読め」というのがいい感じだと思っています。


もちろん死に関してはこれだけではない。退行的願望からどうこう言わないとしても、生きた世界は多かれ少なかれ死とつながっているんじゃないかと俺は感じる。まあ合ってるか分かんないけどな(´∀`*)

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