2017年5月8日 - 80

コンクリートと生態系

どーもどーも、土と木が好きな俺ですこんばんわ。新居の周りが結構コンクリ多くて死にそうになったので、土と木を求めて夜のチャリンコン散歩に行ってきましたレッツゴーヽ(*゚∀゚)ノ

ほいで荒川公園というとこについてちょっとだけ復活しました。まじコンクリだけなのきつい息が詰まる(´;ω;`)

そして例によって、チャリンコでうろうろしながら、なんでコンクリきついのか、土がないとぐはってなるのか考えました。なんだかんだで考えるの好きだな俺。すげーラフ&ゆるふわなんですが以下。

■ケース1:街路樹の根っこの土、周りをコンクリに囲まれている

そもそもそこには生態系が出来ていない。生態系的論理空間※1みたいなのがあるとしたら、そこではそれは形成されていない。相当程度に閉じている、あるいは外乱でしか動きが起きない。そこはあまり呼吸しない。そこでの死はどこにもいかない。そして生の延長線上に死があるなら、そこでの生は死には開かれているが、死が閉じているので、死においては閉じている。そこでは諸々の事はどこにもいかずに堆積/蓄積するだけになる。

※1:さっき作った造語wこれが十分な広さがない、または広さがあっても論理的(≒構造的?)エネルギー的な問題などがある場合、そこに生態系は形成されない、またはされずらい。つまりここではいわゆる広さだけがファクターではない。生態系が成り立つ無数の要素が織りなされているかって事だ。

■ケース2:都会の中の広い公園、周りをコンクリに囲まれているが広い

そこには一応生態系が出来ている(とする)。アクアポニクスライクなやつ。そこは循環的に(サイクリック?)に動作する。そこで死んだものはそこに還る。そこは相当程度に閉じているが、生態系として振る舞える。そこは呼吸をするが、その循環は専ら自らのうちで起きている。その意味でそこでの死は閉じている。そして生の延長線上に死があるなら、そこでの生は死には開かれているが、死が閉じている/循環しているので、死においては閉じている/循環している。そこでは諸々の事は同じようなものとして再構成/流転する。

■ケース3:広い森っぽいとこ

そこには生態系が出来るに十分以上の空間がある。この十分「以上」って大事なとこ。なので、そこで出来る生態系は、自身の外部を持ち得る。そこは外部とのせめぎ合いのなかで自らを生成し続ける。その意味で非サイクリックに動作する。そこは外部に対して開かれている。その意味でその姿は不定である。それは外部とのせめぎ合いのうちに力動的な境界を形作るが、それはせめぎ合いの中で交わったり崩れたりするかもしれない。そこで死んだものはそこに還る保証は無い。そこは生態系として開いている。そこは呼吸をし、呼気と吸気において外部との交換※2を行う。その意味でそこでの死は開かれている。そして生の延長線上に死があるなら、そこでの生は死には開かれており、死が開かれているので、死においてまた開かれている。そこでは諸々の事はどこに流れていくのか、どうなるか分からない。

※2:物質/情報※3の、あるいは生態学的論理の交換を行う。

※3:生態系において、物質はすなわち情報だ。

■まとめ的なアレ

このうち俺の新居がある町が、ケース1に近い雰囲気だからきついのかなって思いました。そういうとこで、生きもの的な行き場の無さを感じてというか。あと土って死んだら分解してくれそうでいいよね。コンクリにはそういうイメージないw※4まる。ラフな考えなんで、えー、ラフですんませんwとりあえずちゃんと夜があって植物があって土があるとこは良い。副交感神経優位的な、リラックス的な、緊張ではなく休まる的な状態が許されている場所というのがないと死ねますw不夜城とか俺無理w日の照っている時の世界の姿もいいけど、夜は夜で素晴らしいんやで。夜の植物とか好きですエロいですヽ(*゚∀゚)ノヒャッハー

※4:そういう意味では死んだら骨は山海に撒いて欲しい的な心情はちょい分かる。


例えば半円は円の形を示唆する。それはいえば途中まで見える円の一部だ。ところで宇多田ヒカルのtravelingのPVがちょい不安を感じるとか怖い的な意見があるらしいんだけど、個人的にはちょい分かる気がする。

俺の意見的には、PVは半円なのだ。ほいでそれが示唆する円の姿ってものがちょっと怖いなーって感じがするのだ。PVの中に映っていなくても、そこに映っているものから非明示的に感じられる/暗黙のうちに示唆されるものって事だ。それは作者の精神状態や世界観かもしれない。

個人的にはPVは浮かれているけど何となく閉じた雰囲気がするなって気はする。ところで俺予想だと「生きた世界」ってのは動的平衡的なので、いえば閉じた論理はありえないので、生きた世界のある領域が閉じた雰囲気がするって事は、その上レイヤーに何かそれを閉ざそうとする者が、あるいは感情、あるいは意図があるんじゃねって気がする。

ところで数学とかは公理を元に展開しているらしいが、それは閉じた論理のように俺には感じる。専門じゃないから分からないけどな。どこまでいっても公理が変形したものしか出て来ないというか。という事で、ここに俺の推論を当て嵌めるなら、そういった公理系が閉じたような格好をしているのは、その系が閉じているからではない。公理系を前提に数学的に思考しようとしている人達が、外乱を意図的に無視して、それを閉じた系として、その系を展開しているのであって、実は公理系を扱っている人も「数学的システム」の一環としてみれば、それは実は閉じていない、開かれた系(というより動的平衡的な系)なのかもしれない。

何をいいたいのかというと、じゃあそのように「意図的に」閉ざされた系で作り上げられたロジックをベースに、果たして開かれた系について語れるのかって事だ。これについては俺には良く分からないとこもある。言語自体がそういう面を持つものかもしれない。あるいは言語は遅延された系なのかもしれない(遅延がないならシステマティックなやり取りがそもそも出来ないかもな。。。※5)。まあちょいちょい考えていきます。

※5:ところで遅延系にとっての動的平衡的な状態で構成されるかもな抽象的構造って、公理とイコールなんだろうか、ここは追った方がいいかも。

それはちょい置いといて、この投稿的に重要ぽいのは、俺らは与えられたパーツから世界観を類推しているんじゃねって事だ。例えばそのパーツから生きた匂いがしないなら、そこから閉じた世界観を感じるかもしれないって事だ。あるいはそのパーツから生きた匂いがするなら、そこから動的平衡的な世界を感じるとかもあるかもしれない。

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