2017年5月10日 - 80
メモ:生命について その6
この頃ちょい前に書いた「身体も生理的な幻想※1なのだ」ってのが気に入ってるんだけど、もし世界がその様だとすると、外界が幻想のようであるという意味で、また自分自身が幻想のようであるという意味で、俺らは、姿かたちが同定出来ない世界に住まおうとしている。そこでは、ある物はずっとその物なわけではない。AはずっとAとは限らない。
※1:幻や陽炎のようだぜっていうよりも、都度構成され続けるもののうちに立ち現れ続ける構造/構図/パターン/ゲシュタルト、がそこにある、的な意味で使ってるっす。
そのような世界では、AがAである事は崩れ去っていく事が往々にして起きる。構成が変わればそこに立ち現れるゲシュタルトも変わったり、あるいはもう現れなくなったりするかもしれない。ところで崩れていく世界のうちで姿/ゲシュタルトを保っているものもある。それは(極めて広く捉えた意味あいで)生きたものでもあるし、動的平衡ぽい何かって事かもしれない。
そこには、姿を保ち続けようという志向性が働いている。あるいは生きていようとする願望が働いている、ように俺には感じられる(それだけではないにしろ)。それは、そのようなドライブがそこにあるという事だろうか。例えばエネルギーをドライブしようとするエネルギーのドライブ、あるいはそもそもそれを引き起こすような、生きようとする志向性※2※3がそこにあるという事なのだろうか※5。それともそうではなく、また違うような出来事なんだろうか。
※2:少なくともいわゆるただの物質的なやつには、そういう志向性は俺は感じない。
※3:ところでこういうのを「志向性」みたいな話にもってくと、ベイトソンの誘眠素※4みたいな話になりかねないと思うし、それってある意味思考停止なので、なんも考えずにそっちに行く、って風にはしないようにするつもりです。
※4:今風にいうと「〇〇力」みたいな奴。「ベイトソン 誘眠素」でGoogle検索すると、原文抜粋してあるようなページも出て来ます。憶えてなかったけどトートロジーの話しだったぽい。
※5:ところで志向性/動作のために姿の保持があるのだろうか??それとも姿の保持のために姿の保持があるのだろうか??この問い方はハイパー雑なのでなんともだが、どっちかいうと後者な気がする。そうでないと生命は環境や場所に応じた様々な姿を取らない。ずっと変わらず同じ姿のままになってしまう。
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