2017年6月20日 - 80
メモ:心的なものについて、構造について その2
世界はゲームではない、だから幻も投企も成立するのだ。
公理/保証するルール、の無い論理の動きや集積、それが生物や生命のひとつの姿だ。
世界は不確かで分からない、あるいは不確かで分からないかどうかも分からない。だからこそ、挑戦、怖ろしさ、信じようとする事、裏の顔、地獄、つかの間の幸せ、そういったものが成立するのだ。
ゲームではない世界を生きようとする事、から、多くのものが、強く言えば全てのものが始まっているのだ。
生命は、生きようとするものであって、ある面では生きているものではない。生きているのは結果であって、生きているかどうかは、ある面では生命の本質ではない。生きようとするものが本質であって、結果は本質それ自体とは少し異なる。
事物は現象として提示される。
現象として提示された事物は動性※1である。
その動性から奥行きの動性/連想が感知される。
それはゲームではない、そこに/それらに保証は無い。
※1:今まで関数って書いてたもの。ただし関数自体と関数の出力を、動性って表し方はゴタマゼにしてあるっぽいが。
保証は無く、しかし感じ取れる動性の連なり、そして奥行きが世界であり現象だともいえる。
そこには現象的な幻想しかないのかもしれない。それは夢幻というよりも、ゲームではないという意味で。
そして保証は無くとも、保証を求めずとも、その連なり、奥行きに触れようとする事が出来るのではないか※2。
それに触れようとする事、あるいは触れる事が、(言語ゲーム的なコミュニケーションではなく、)コミュニケーションの一つの様態ではないのか。
※2:これが確かかどうかは俺には分からないが。
不確かさのうちで、同定しようとする事。
AがAであり、これがこれである、というだけでなく、かなり乱雑に敷衍すれば、自分が自分であり、彼/彼女が彼/彼女であり、今日が今日であり、明日が明日であると捉えよう/思おう/信じようとする事。
これはおそらく意識なるもののひとつの作用だ。
もしかしたら意識よりももっと深いレイヤーの出来事かもしれないが。
生態系あるいは生存闘争というのは、当事者にしてみれば、無数の豊かさが咲く地獄の方が、「幸せな生態系」のようなイメージよりも近いように俺は感じる。しかしそれだけではない。地獄のような姿は豊かさの一面であって、静かさ、取り残されたような場所、等々、があるのだ。また、無数の場所で織り成される文化というものは生態系=地獄、のような、一面的で単純なものではおそらくない。例えばちゃんと機能している家庭や家族。あるいは穏やかさ。あるいはコミュニケーション。
早期の状態(の回復)と愛情とはおそらく異なる。被るところがあったとしても。
あるいはまた死と早期の状態(の回復?)も少し異なるのかもしれない。
それらは一部近接した領域にあるのかもしれないが。
それらは対立する力などというよりも、ひとつのシステム、生きた様態が取る無数の姿形なのではないか。
世界はゲーム※1ではない、そこにあるのは幻がどれ程分厚くあるか、という事なのかもしれない。分厚くというのはベイトソン的な意味でRedundantという事だ。そしてその幻は、捉えようによっては、リアルそのものでもあるという事だ。
※1:何者かに与えられたルールのある/ルールの分かっている/ルールの分かり得る領域。内部と外部が隔てられ得る領域。
世界がゲームではないなら、そこで生きようとするものは、文字通り自己創発的なものとなるのではないのか。何も(与えられたルールの)ないところに自らを作るには、自らが自らを作ろうとしなければならないのではないのか。ただこれは俺にはよく分からない。「自己」創発だけでなく、あるいはそれ以上に、様々な相互作用があるのかもしれない。
自己創発的であろうとするなら、それは、複数のレイヤーが自らのうちにある事になるのかもしれない。(1)潜在的で、シミュレートされているとしても、まだ具体的な姿形になっていないレイヤー、そこで起きる出来事。(2)具体的な姿形になったレイヤー。(3)1と2の中間の無数のレイヤー。
これは雑な推測なのかもだが、例えば具体的な身体は2に、精神あるいは心なるものは1になる、というような事なのかもしれない。
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