2017年6月6日 - 80

ぶらぶら散歩

先日久々にぶらぶらして公園とか行ってきた。俺はちょい廃墟っぽいとこが結構好きです。物事が朽ちてく感じと、社会性を離れても生きているものが息づいてる感があるっつうか。社会のうちで「社会的に」扱われていたものが、その(ある種の)束縛から解放されて、事物としてのそれ自身の姿に立ち戻っていく感があって好きです(似た感じで夜の町もいいすよね。昼間の社会性が消えて物本来の姿でそこにある感があって)。

ちょっとずれるようだけど、コミュニケーションてのは、社会のうちのある役割を果たしているからその役割のものとしてそうするってんじゃなく、その物本来の姿が何を語るかとか、何を伝えるかとか、そういうとこに触れたり居合わせたりする事なんじゃねって思ったりなんだり。役割じゃなくてさ、生きものが生きたり死んだり出会ったり、無数に、相互に展開する様相のうちにそれは起こる事っつうか。生きものの役割が、みたいな話もあるかもだけど(例えば雄とか雌とか)、例えば雄のある行動にしろ何にしろ、それはその生きたものの展開した力、そこに内在した力がそのような姿を取ったのであって※4、それは、雄だから〇〇とか、雌だから〇〇っていう、結果や外形から、内在するであろう力を語れるようなものとは違うんじゃねって気がする※1。

※1:多分この辺はひっくり返ってるんだろうけどね。ガアガア鳴いてヨチヨチ歩く生きもの(という現象)にアヒルって名前を付けた、そこまではいいけど、アヒルならガアガア鳴いてヨチヨチ歩くはずだ、ってのは名前が持つ意味の系に判断の基準を求めた、現象への決め付けって言ってもいい。現象自体に判断の基準を求めようとするんじゃなくてさ。俺らは名前ベースで判断しがちだし、それはいい面もあると思うけどね※2。

※2:この辺は、意味の系と現象の系は異なるのに(もち意味の系は現象の系の一部なんだろうが※3)、そしておそらく現象の系ベースで意味の系は構成されたであろうってとこなのに、いつのまにか意味の系ベースで現象の系(の認識の姿)を規定/同定しようとしているってとこがあるんじゃねって印象だ。ところでちょい廃墟っぽいとこってのは、意味の系にあったならば姿かたちを留めていたものが崩れていくから、その意味の系の応力が失われていく感があって、それで現象の系がその姿を現していってるように感じるって事なんすかね。

※3:ただ、意味の系は俺らの中で、いわゆる現象の系とちょい切り離された風に、浮遊した風に、なってると感じる。ただそれはおそらく切り離された「風」であって、ホントに切り離されてるわけじゃないんだろうが。てか、その切り離されてる「風」のとこが、俺的言語だけど、ウロボロスの胴体なのかもしれない。

※4:その意味では、「ゲーム」としてルールが明快に与えられたものでもない限り、あるものがどんなものかなんてのは、俺らには分からない。そのあるものがもたらす出来事から、それがどのようなものであるか、そこにどのような関数的にものを返す何かがあるのか、と想像や推測する事しか出来ない。逆に言えば、それは不可知として半ば開かれているといってもいい。半ばってのは、話し的には、それがどんなものか分からないのなら、それが明確に「不可知」かどうかも分からないだろうってとこからだ。それとまた、想像や推測しか出来ないてのは、事物や出来事の奥行きの可能性/ある種の明証性の無さってのは「ゲーム」ではない事物の姿に、おそらくは(上記の意味で)半ば、そして実は常に、感じられるものかもって事だ※5。

※5:コミュニケーションについて言えば(もちコミュニケーションて色々あるんだろうけどさ。とりあえず俺が思うのとこのやつって事でw)、この奥行きの可能性/明証性の無さを踏まえた上で、そこにあるかもしれない関数的にものを返す何かに対して投げかけられる行為、って気もする。そこに明快さを持ち込もうとすると、それはおそらく壊れてしまう。雑にいえば、明証性の無さを前提に成立していた状況、という前提が崩れてしまうので。ただこれは言語的なものがコミュニケーションにとって(台無しにするという意味で)破壊的で、非言語的なものはそうではないって事じゃない。非言語的でもなんでも、雑で乱暴な認識を前提に行われるものは、おそらく何だってそういったコミュニケーションを台無しにしてしまう※6。

※6:個人的には、雑にいえば、生きたものは、非明証的な世界を探索的に生きようとしてるんじゃねって思う。だから、探求、曖昧さ、想像、伝わるように感じる事、伝わらないように感じる事、誤り、愚かさ、信じようとする事、等々というものがあり得るんじゃねーかと※7。

※7:もちろん人為的な明証性※8ってのはあるかもだけど、それは人為的なだけであって、そこから人為性を取り払ったら、そこには非明証的な事物の姿があるんじゃないかなって気もするけどね。人為性が朽ちた/崩れた時に現れてく、人為性とは違ったロジックの諸々の事物の姿がさ。そしてそういった時の事物や生きたものとやり取り出来ないなら、コミュニケーションとしては本質を欠いちゃってる印象っす(`・ω・´)ゞ

※8:ところでその(人為的な)明証性の基底ってのは何で担保しようとしてるんすかね。ベイトソン的な冗長性や、経験則や、同語反復とかなんすかね。まあそれのホントの基底は非明証的な世界/広がりにつながってるのかなーとも思うけど。俺らはその非明証的な世界のうちに多少なりとも明証的な認識世界を構築しようとしてる感はあったりなかったり。ただベイトソン的な冗長性(あるものとあるものをつなげる事、そのつながり/重なり)で俺らが世界を理解しようと試みているなら、それが失われ、ホントに非明証的になってしまう状態ってのは、認識活動が停止した、いえば認識をしているものが死んで世界を認識しようとする試みが絶えてしまった、という状態なのかもしれない。

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