2017年8月27日 - 80

メモ:審級について、自我について、他

■審級について

ベイトソンは「大いなるエコシステム」がトートロジカルだと語り、またそれが動作するためには審級が必要だとも語った。ところでその審級とは、大いなるエコシステム自身には起きないのだろうか。つまり仮に「何もかもが審級に晒される」とするなら、大いなるエコシステムに含まれる全てのものも、大いなるエコシステム自体も、そしてこの「何もかもが審級に晒される」という記述自体も、審級に晒される、という事になるのではないか※1。

※1:「何もかもが審級に晒される」事自体も確かであったり永続的であったりするとは限らない、みたいな感じ。

大いなるエコシステムなるものが動作する時に、もしそこに「新しさ」が必要とされるとするのならば、まったく不変で同一のものがあってはならない、って話になる。何もかもが審級に晒され、何もかもがその審級のうちで試され、一部あるいは全部は残り、そして一部あるいは全部は壊れ、そしてそこから「新しさ」なるものが励起する、という事はないのだろうか。

いってみれば、システム的な「破れ」や「破壊」というのが、新しさにとっては重要な気がする。そしてそれは、同一に保たれる事が保証された領域では起こり得ない事ではないか、という気もする。そして「大いなるエコシステム」なるものがあるとしたら、それは必然的に新しさをどこかしらに含まなければ、いずれ枯れて滅びて停止してしまうのではないか、という気がする。気がするばっか書いているけど、俺のイメージにはそういうとこがある※2。

※2:ベタベタかもだけど、イメージ的には、冬があるから春が来るぜーみたいなとこと通じるものがあるかもしれない。死と新生の祭が出来ないシステム、死と新生の祭が出来ない領域は、それがどんなに優れていてもいずれ停止してしまうんじゃねーかと※3。

※3:こういうの書くと北欧神話のラグナロクをちょっと思い出す。


■自我について

近所の整体の店いったら、インドの話になって、ヴィヴェーカーナンダって人を教えてもらったw

で、Wikiを調べてみて「ヴィヴェーカーナンダの思想」のとこを読んで「あーなんかベイトソンとかのシステム理論に似てるかもなー」とか思ったんだが、ちょっと良く分からないこともあった。具体的には以下の様な記述。

・感覚の限定を超え、無限なるものと合一するのが最高の理想。

・実在をあるがままに見て普遍なる存在と合一することを目指す。自我とは迷盲であり、神のみが実在である。

・神に夢中になることによって小さな「我」を滅し、神と合一することを目指す。

俺はインド哲学は詳しくないので語彙の解釈を誤ってたらさーせんて事で。ここで「自我/我」は迷盲であり、神のみが実在である、とされているが(不二一元論ていって、梵我一如とかの認識論が元らしい)、これは誤りではないのか、と俺は思う。具体的には全体と部分の混同ではないか、と思う。

もちろん認識/生体などの生きたシステムは「ここからここまでがそれ」という様に限定できるものではない。例えば「俺」は、(あえて分割的な言い方をすれば)俺の意識、身体、衣服、仕事、家族、知り合い、生活、食べ物や飲み物、住んでいる場所、来歴、場所の広がり、来歴の広がり、などなどの動的な構成から出来ている。その意味で、ある「部分」なるものが静的に存在する、というのとは違う姿で、おそらくは動的に存在している。

ところでしかし、部分的に区切って言えば、俺は俺の身体や意識でしかない。衣服は俺ではないし、住んでいる場所は俺ではない。これは現象としての「俺という現われ」が、俺の身体などを極めて強い中心として生じ/励起し、またそれらの重み付けが極めて強くなっていて、来ている服や住んでいる場所は、俺という存在/システムにとっては言えば辺境であり、重み付けが低い、という事になる。

俺が思うのは、その様な姿で現われが生じている、という事、いえば「小さいシステム」として「俺」というものが生じて動いている事は、それはそれで意味があるのではないか、という事だ。そしてこの「小さいシステム」を取り巻く、圧倒的に膨大で大きなシステム/宇宙のようなものがあるとする。

そして俺には、上記の思想で言われている事は、その小さいシステムとしての現われは迷盲であり、大きなシステムという実在こそが本義であり、小さいシステムはそれと合一すれば良い、というような話に聞こえる。果たしてそうだろうか??小さいシステムが小さいシステムとして現れている事、あるいは、その小さいシステムが小さいシステムとして何らかの事を感じ、生き、滅びる、という事は、小さいシステム自身からすれば、「小さいシステムの現われに誠実である」という事なのではないか、という印象がある。

それを迷盲であり、大きいシステムと合一すれば良いというのは、上記の言い方で言えば、小さいシステムの現われとして不誠実ではないか※4、とも思うし、また、起点(認識の起点としての小さいシステムの現われ/意識/姿/自我、などと呼ばれるもの)を見失っているのではないか、という気もするし、システムとして全体(?)と部分を混同しているのではないか、という気もする。

※4:これは個人的な捉え方だが、例えば音楽の演奏を想像すれば、小さいシステムが小さいシステムとして真剣に演奏した演奏の方が、小さいシステムが自分自身を迷盲としてしまい「大きいシステム」と合一して(?)真剣に演奏するよりも、小さいシステムの「存在や認識の根」のようなものに対して誠実であるというか、ちゃんとつながっている気がする。そこで大きいシステムという概念(?)/あり様(?)を一度経由してしまうと、それはワンクッション置いた、「遠い」演奏になってしまう気がする。

起点についていえば、これはベイトソンもそうだが(ベイトソンについてはちょっと後述※5)、「差異」や「全体」の事について多くを語り、「同一性」や「(部分としての)起点」についてはあまり語られない印象がある。しかし、自我なるものが仮にあるとして(ホントにそれが「ある」って事ではないにしろ)、それ(あるいはそれの同一性(それが仮初めのものであるor仮初めのものであり続ける、としても※12))が認識の起点だとしたら、それはめちゃめちゃ重要なポイントなのではないのか??

※12:思い付きレベルだけどとりあえずメモ。ところで意識や自我なるものは、自らを仮初めのものとは疑わずに励起しているような気もする。その様に、自らが仮初めかどうかを問わず/疑わずに、自らを(常にor常に既に(?))ある起点として認識世界を展開しようとする、というのは、意識や自我なるものの特性ではないのか??あるいは、その疑いの無さ(あるいは論理階型の無さ、自己再帰的な捉え方の無さ)を、ごくナイーブな主観性というのはありなのだろうか??

起点の起点性(それが絶対的な原点でなく、時に揺らぐものであったとしても、あるいは常に流転するもののなかにいる不確かなものだとしても※6)であったり、また起点(あるいは意識と呼ばれるもの)の不透明性というのは、「全体」論に譲り渡してはいけないものではないのか、と俺は思う。それを譲ってしまった時に、俺らは(上記でいう)「存在や認識の根」から自らをワンクッション外したとこに置いてしまうような印象がある。それはおそらくは、「主観的に世界を捉えてるものが『客観しかないのだ』と想定」して「主観を抹消する」様な、決定的な誤り/認識の起点のおかしな形での抹消あるいは譲り渡しではないか、と俺は思う。その様な意味で「(認識論的な)自分のサイズや起点を大事にする」ってのは多分結構大事な事だ。

※5:ベイトソンがやっていたのは、プレローマとクレアトゥーラをつなぐ一元論的な領域へのステップなので、彼の議論で同一性や起点が重視されなかったのは分かる。ただ彼のスタイルで議論を続けたにしろ、どこかでそれは語られる必要がある事ではないか、とも俺は思う※7。

※6:「自己/自我なるもの」とは、ある意味では常に審級を受け続ける小さなトートロジーなのだ、とも捉えられる。

※7:これについては今「天使のおそれ」を読み始めたので、自分なりにおっかけてみます。


■その他1

・書いちゃったけど「天使のおそれ」を読み始めたよ!(°∀° )ノシ

・出来事/現れの「奥行き」あるいは「(明確には)像を結ばない奥行き」ってのは、結構大事なもんだと俺は思う。それは例えば示唆、予感、察知、などといったものにつながる。そして例えば予感(あるいは像を結ばない不確かな予測と、「像を結びそうだけど結ばれていない何か」への期待、あるいは「不確かさへの想像も含めた期待」)というのは、生きた世界のコミュニケーションにおいて大きなものではないか、という気がする。具体的にはアレですね、マッパより下着付けてる方がエロいという(/ω\*)キャー

・町歩きの楽しさもそういうふわっとした期待があるかもとかは思うwまあこの辺はおっかけてくと、投企的なコミュニケーション※8に関係してくる気がする。例えば、相手のうちに「相手の心」なる不確かなものをどのように想像し、コミュニケートを試みるか、という話。コードやプロトコルがあらかじめ決まったものではない、という事を基本的な状態としたコミュニケーションであったり、そこでの願望/欲望/投影の姿、あるいは誠実さ/思いやり/心遣いの姿、等々。あるいは「『分からなさ』への態度」としてのある種の傲慢さ、臆病さ、誠実さ、等々。

※8:俺の造語っす。予め「こうすればこうなる」って決まってたり分かってたりしないとこへのコミュニケートの試みって感じ。ある意味ではベイトソンの「予測できない数列」への、予測を投げ出さない試みに近いとこがあるかもしんない(/ω\)


■その他2(公理の学、トートロジー、生活世界、審級について)

A.

出典忘れたけど、「自然科学は現在の世界の科学、数学は全ての可能世界の科学」みたいな言い方があった。意気込みは認める(*´艸`*)

で、話を数学だけでなく論理学も含めて、これを「公理の学」って事にする(演繹的論理学っていうんすかね??)。で、俺の少ないそれの知識だと、例えばユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学みたいに「公理が違えばそれによって描かれる系は異なる」って事が起きる(と思っている)。まあトートロジーの展開なんだから多分そうすよね。

ところで、ベイトソンのいう「審級」が公理にも当てはまる、という様な公理系を想像してみる。すごく雑にいうと「その公理がずっと確かかどうか分からない公理系」というのが出来るとする。そんなの公理じゃない、という反論は受け付けません。なぜならそれがルールである様な系を想像する事は可能だと俺は思うからです。

その世界は、例えば今の数学や論理学の公理が「硬くて長持ち☆絶対変わらない!」的な石や金属のカチコチのブロックみたいなもんだとしたら、植物の様な(育ったり枯れたり増えたり減ったりする)公理で編まれた世界かもしれない。

そうなると、その植物の様な公理で編まれ描かれる系というのは、当然、カチコチブロックを積み上げて描かれる系とは、「公理が異なれば描かれる系も異なる」という事からいえば、相当程度に様相が異なるのではないのか??あるいはその植物の様な公理と、カチコチの石や金属の様な公理とを合わせて描かれる系というのは、またそれぞれの系とも様相が異なるのではないのか??

そしてまた例えば、生きた世界が仮に柔らかい公理と硬い公理のゴタマゼで出来ているとしたら※9、硬い公理だけでそれを描こうとするのは、公理系の性質からいって無理なのではないのか??それならば現在の公理の学のありようが「全ての可能世界の科学」であるとは、控えめに言っても過大評価なのではないのか??

※9:これは公理の話というにはめちゃめちゃかもだが、「硬い公理」で出来た系が他の公理系と交わらないとしても、「柔らかい/生じたり滅んだり変質したりする」公理で出来たりそれを含んだ系は、他のそういった系と交わったり、より大きな系(?)のうちで共存したりする事があるのではないだろうか??あるいは硬い公理系は、「他の物語が入る余地のない物語」のようだ(そこには公理しかなく、それは何も説明出来ない。公理系からは外れるが、例えば物理学的モデルと現実的な現象との間には「そのモデルが現実なるものに対応していると理解したり想像したりする俺ら」という「物語」がある。それ無しでは物理学的モデルは成り立たない。しかしその「物語」は、おそらく物理学的モデルにおいては何もないかのように黙されている)。

B.

ポパーというオッサンは「反証可能なものが科学である」といったらしい。ところで俺は「世界はゲームではない」とかよく書いてるけど、仮に俺らが何か確かなものが「ある」という訳では無い世界(≒生活世界?)に生まれ、そしてそこで、「不確かさのうちの『確からしさ』」を重ね合わせ、編み合わせながら、ある種の知識/地図/奥行きを編んでいくのだとしたら、ある意味では全てが反証が可能とも不可能ともつかないものになるとも捉えられる、あるいは俺らの経験の全てが「分からなさ※10に開かれた」ものになるとも想像される(これらは強い言い方だが)。ではそこでの「分かる事」とか「知」とは何なんだろうか。果たして簡単に「反証可能/不可能」といったモノサシで計測できるものなのだろうか※11。

※10:全くイミフの世界、ではなく、おそらくは、想像可能性とか確証可能性とか、もしかしたら非-確証可能性や反-確証可能性や半-確証可能性にも開かれた世界。半-とかは適当だけどなw

※11:ゴチャゴチャした事をいうけど、例えばフランスの現代哲学の偉い人(?)が書いた、テキストを線で消す事や、テキストの狭間の空(くう)の話は、そういったモノサシで計測するのが難しい話の断片だったりするのではないのか??あるいは「反証可能なものが科学である」という命題は、反証可能なのだろうか??可能でないならば、その命題は科学的ではなく、その命題によって定義されたり、その命題にある意味立脚する「反証可能なものとしての科学」なるものも科学的とは言えない、という事にならないのだろうか??

C.

ところで俺らに「知」なるものがあるとしたら、それは分からなさに対して開かれ、ある程度柔らかい情報の断片と、ある程度硬い情報の断片を編み上げて作られていっている様なものにも感じる。おそらくそれが生きようとするものの探索的な知のありようなのではないか、と俺は想像するし※13、またその「知」なるものは、生きようとするものが周囲の環境に対して快/不快などの感情や情動を持つものであり、それが感じた情報の断片から、それによって編まれている以上、ある程度「感情的な知」ではないかって気もする。(それにとっての)生きた世界のなかで意味を持つ知というか※14。

※13:そしてまた、その知の起点としての自己なるものの、ある面での不透明性というのも、その知の編まれ方に関連付いているような気もする。これはホントにそんな感じなのか、俺が良く分かってないだけなのか、俺の個人的な感じ方がイマイチなのか、良く分からない(/ω\)

※14:これは幾分(だいぶ?)システムを狭く切り取り過ぎた見方かもしれないが。

メモ / 日々 / 暮らし方


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