2017年8月15日 - 80

音楽 その9&夢について

めっちゃやったゲームって事でファミコン版星のカービィから。ふわふわな世界観から城や森や地底を潜り抜けて、徐々に深く深く夢の世界の様なステージに入っていく感じがちょいこわで好きだった。

てか今ストーリー見返すと、根源的な治癒の物語にもとれるやつっすねこれわ。ゲームストーリーを一つの心のうちでの出来事だとみなすと、何かの理由で心の世界の深い場所に発生した悪夢に対して、デデデ大王という表面的な悪(?)がそれを(世界を守るために)覆い隠し、その覆い隠した事による影響で世界の機能が落ちて、それに対してカービィという善(?)が世界の中に深く入り込んでいって、デデデ大王を倒す事で本当は何が悪(?)だったのか発覚して、最後にカービィが悪夢と直接対決して、世界がその根源的な力を取り戻すっつう。

夢のそういうとこっていいすよね。ある意味では、心なるものの具体化した世界っつうかさ。この辺ちょっぴり後述しまっす(`・ω・´)ゞ


■夢についてのメモ

「夢とは正に一貫性―”現実”と言っても同じです―のチェックを受けないプロセスを指す言葉であります」とベイトソンは書いていたが、それはある意味そうだ。ただそれはどちらかというとそれは、寝てる時に見る夢っつうより、審級を受けずに肥大(エスカレート)する妄想や行動っつう印象だ。もちろん寝てる時に見る夢にもそういう一面はある(ただしエスカレーションするアクションの連鎖、という意味では、ベイトソン自身が書いていた、分裂生成的なもののイメージの方が、寝てる時に見る夢よりも近い面もある気がするが)。

夢はある意味では、遅延された処理だ。それはシステムにかかった負荷を、負荷が取れた後に処理する。システムは、負荷がかかっている間は、負荷に耐えるためにエネルギーを使う事になる。負荷が取れた時に、しかしそこには、情報的なダメージ、もつれ、ほどけなさ、処理できない塊、等々、が残っている事がある※1。システムは負荷がかかっていない時に、そういった負荷が残していったものに向き合い、処理をしていく。夢にはそういう一面があるような気がする。

※1:例えばダブルバインドは情報/メッセージ/物語のもつれのごく単純な一形態であって、実際はもっとずっと錯綜して、広く複雑なのではないだろうか。例えばナラティブセラピー(これこれこれ)とは、そのもつれの全体を緩やかに解消し、受け入れや共生が可能な(あるいは隔離、癒着、おかしな形の―例えば肯定の皮をかぶった否定や、肯定と肯定の間に否定が隠され埋め込まれているような出来事など―肯定などをほどいて、そうなっていたものを明るみに出し、隠れた否定が刺激される事で防衛反応としての暴走が起きないような)形に再マッピングしていく様な作業なのではないのか。少なくとも身体における生理的なレイヤーというよりも情報的なレイヤー、のもつれをほどき、自己なるものが衝撃を受け過ぎない速度で、呪縛ともなり得る情報のもつれを解除していくのに、(何らかの関係性のうちで)自ら語るような手法(あるいは何らかの物語のうちに呪縛が解放されるような経路を、その呪縛を抱えていたものが自ら作る事で、自分自身の事としてそれを受け入れるような手法)は大きな意義を持つ印象がある。

あるいは、ある面では、学問的な基礎研究もそういった一面があるのかもしれない。学術的研究をある種の実用性に対応させてどうこうしていくのではなく、研究自体をただただ深化させる事で、新しい世界が作り上げられていく事がある。その世界もいつかは何らかの審級を受けなければならないのかもしれないが、ただしかし、ある種の実用性、あるいは現実に対応する事だけが、物事を深め、広げ、作り上げていくプロセスとは限らない。現実から離れたところで進行した夢が、やがて大きな力になって現実を変えていく、という事は、例えば「革命は常に辺境から始まる」という言葉が示すような事でもある(この言葉の是非は置いておくが)。

少し話は変わるが、引きこもり、、旅、などはそういった面を持ち得るのだと思う。現実なるものの審級を一時的に逃れ、自らのうちで溜まっていた処理を進め、自分なりの世界への構え、世界の捉え方の分化の促進や形態形成を行い、そのリザルトを以って再度現実なるものい赴く事、など。ただしこういった作業は、怪物になってしまう危うさも持つのだろうが。

ところでしかし、現実とは何だろうか??それは無数の夢が、相互に関与し、時に審級し合うようなプロセスではないのか??ベイトソンは「夢とは正に一貫性―”現実”と言っても同じです―のチェックを受けないプロセスを指す言葉であります」と書いたが、そうではなく「夢とは他の夢のチェックを受けないプロセスを指す言葉※2」という事ではないのだろうか(ところで例えば、誰かの夢、誰かの幻想のすべてが、他の夢や幻想にチェックをされる訳ではない。その意味では、誰もがちょっぴり怪物なのではないだろうか)。

※2:言葉上の矛盾があるのでシクヨロでーす(`・ω・´)ゞ

そしてこれはおそらく自己によるチェックも一応※3含まれる。現実、夢、幻想に境目がないのなら(少なくとも現時点の俺には境目がいまいち分からない)、何か対して責任を負うのは「それが現実だから」ではなく、自分自身の(主体的ともいえる)選択(のようなプロセス)によるのではないのか。それはその理論の底を自分自身が負うという一面を持つのではないかと俺は思う。〇〇に対して俺は責任を持つ、という時、その最終的な根拠は自分自身になる。ところで自分自身とは何だろうか??自分自身なるものが何かの記号ではなく、行動の束だとしたら、そのような責任を取るという表明は、何らかの行動の約束という事になるのだろうか??あるいはその行動の束を方向付ける、何らかの方向性の約束という事になるのだろうか??その両方だろうか??それ以外だろうか??

※3:しかし毎度チェックをクリア出来るものになろうとするなら、チェック機構を強化するのではなく、チェックをクリア出来るもの自体に変わる試みをする、という事がある程度含まれる気はする。そしてそれは非常にコストもかかるし危険でもある事なので、大きな出来事が無い(あるいは大きな出来事を想像できない)限り、その選択肢はあまり取られない気がする。この辺はベイトソンの進化の話とかぶる印象。ところでしかし、またそれは、大人というものになる、という選択においては、非常に重要な判断な気もする。それまで審級を受けずに済ませていたプロセスに審級を(自ら)持ち込む事で、そのプロセスを改変していこうという試み、というか。

話は夢に戻るが、外的なストレスから退避した状況での、システムの自己修復、自己展開、あるいは普段は顕在化できない内的なプロセスの展開、などは、そのシステムにとって重要だと思う。それは治癒と展開のプロセスであり得るからだ。と同時に、普段は顕在化できない内的なプロセス(あるいは原初的なプロセス)の展開などは、度が過ぎれば、あるいはいわゆる現実に破壊的な影響を及ぼすようになれば、それは審級を受けずに肥大した悪夢だった、という話になりかねないとも思う。

これについては、システムが外的環境への対応をやめて自己を修復するプロセスと、犯罪などの破壊的な出来事を起こす様な妄想が成長するプロセスは、ある意味では似ているとこがあると捉えられる、って事とも思える。その意味では、犯罪は特別なんだろうか??カービィの話ではないが、例えば、外的環境とのやり取りの中で心なるものに生じた傷に対して、心が自己治癒を含めて姿を変えるうちに展開された処理様式、が具体的な行動となり破壊的な結果になったもの、みたいな話とも捉えられるのではないのか。

そうだとすると、そこに必要なのは破壊的行動の封じ込めでは無くて、根源的な意味での傷からの回復(これはもしかしたらフロイト等がいう「原初の状態の回復」という面もあるのかもしれない、しかしまた違うのかもしれない)であり、生きたシステムとの(葛藤を含んだ)融和であり、さらにまたその関与のなかでの主体性の確立※4や自分なりの行動規範や価値観の確立(あるいは再確立)のトライアルだったのではないか、とも思える。その回復は喪(悲哀の仕事)とも似ている。あるいは外的環境(への対応を主としたプロセス)を昼というのなら、(内的環境の処理や動作を主としたプロセスとしての)夜にも似ている。あるいはちょっと変わった(そしてある意味ではだいぶ不正確な)言葉遣いをするなら、昼を意味の出来事というのなら、それは存在の出来事としての夜にも似ている(もちろん比喩としての昼の出来事/物語から離脱したとしても、比喩としての夜には夜のメッセージの世界があるし、それがイコール「存在の出来事」、みたいに捉えると事を単純化し過ぎてる気がする。ただある意味、夜の方が生きものや世界の?原初的な姿には近いのではないかって気がするので、そういうのが強く出るところはあるのかもねとは思うが。これって社会性がそぎ落ちやすかったり、太陽光とかの強い環境的刺激が少なかったりするからなんすかね)。

※4:主体性とは、少なくとも諸々の出来事と融和的な構えも闘争的な構えも取れるものであって、諸々の出来事のつながりの外にポツンといるってだけではないのではないか、という気もする。しかしそれとは別に、諸々の出来事のつながりの外にポツンといても、自ら進もうとする方向性を模索し続ける者も、上記とは異なる意味で主体的なのではないか、とも思える。主体性ってよく分からんですね。

えー、だんだん何書いてるんだか分かんなくなってきました(/ω\)とりあえず俺は十代後半の数年間ひたすら夢日記をつけつづけて、その辺からユング心理学ええのうってなって、そしてなぜかシステム理論に流れていった奴でした。はい今回終わりー。


■システムに関するメモ

システムを生存させるために何を通さなければ/徹さなければならないのか、というところのものを(おそらくはシステム自体が)通す/徹す、という事が重要なのではないかと思う。そしてその生存とは、いえばシステムの継続/断続であって、連続ではおそらくない。システムのうちの旧いものがいつまでも残り、システム全体を古びさせないためにも、システムはどこかで一度死に、新しく生まれなければならない、のではないかという気がする。死のための死ではなく。

俺が愛情とか(ちょっとポエムな事を)いってるのは、木や森がどうこうではなく、(森の)季節が動作するのに、(システムの当事者として)何が重要/必要か、みたいな話だ(これは比喩なので地球の公転とかはどうでもいい)。えー、別にポエムな事はいいたくないし、スピリチュアル(笑)な事は嫌っている(本当の意味なら嫌いではない)ので、愛情とか俺がいうのどうかなーと思うとこもあるんですが(/ω\)まあ今は他に言い方が分からないので、少しずつ追っていって、少しずつ砕けた言い方に出来ていければなと思っています。

メモ / 日々 / 暮らし方


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