2017年11月4日 - 80

メモ:植物の成長について、他

■植物の成長について

あまりいい考え方でないかもしれないが、植物が単純な数理的様式を展開しようと成長しようとしている、とする。しかしそれは周囲環境や栄養状態によって妨げられたり上手くいったりする、とする。そこには数理的様式の展開とは別に、それが成功するか否かの物理的生理的様式/状況がある、とする。そうなると上手くいっていない場合、そこで数理的様式の展開は阻害され得るってことになる。

これはあるレベル(数理的様式のレベル)では公理は公理足りえるが、別のレベル(物理的/生理的様式/状況のレベル)では公理展開は上手くいかない、という事になる。そうなると、それは果たして公理が破壊され得るという事なんだろうか。それとも公理の展開様式は破壊され得るが、公理は破壊されない、という事なんだろうか。

ところでそういった公理のようなものがあるとして、それを形作っているものは物質だとも考えられる(それは物質で表現されているだろう、というか)。そうなるとその物質が壊れた時に、その公理は破壊された事になるのだろうか。それともそうではないのだろうか。

そしてめっちゃ話は飛ぶが、フロイト的な力動とは、そういった数理的様式の展開に伴う/その展開自体を表現する様々な物理的、生理的、化学的物質の移動と非-移動(ベイトソン的な意味で「移動しない事もメッセージになる」という意味での非-移動)だったりするのだろうか(ちなみにフロイトの用語と俺がよく使うイメージの対応関係を絶賛強引に想像すると、自我:意識、超自我:学習した事、エス:数理的様式の原-展開、とかになるのではないのだろーか)。

※1:この※印は雑な書き方だけど勘弁。ところで俺らの発生に、そういった数理的様式(どれ程シンプルなものかは知らないが)がないとなると、それは何かがおかしくなる。そういったものがないとすると、卵子を精子が刺激しただけで、発生のパターン的なアクションの連鎖が毎度毎度起きるという理由がかなり分からなくなる。俺らの発生は、少なくともトリガー~初動部分は、そういった(潜在的な/予め埋め込まれていた/おそらくはジェネティックな)数理的様式/生理的様式の展開そのものではないのだろうか??そしてまたそういったジェネティックなレベルにある情報に、ソマティックなレベルにある動作が辿り着く、という事はあるのだろうか??例えば意識の根源にそういったジェネティックな情報があるとしたら、おそらくはソマティックなレベルの機構であろう意識は、そこに辿り着いたりするのだろうか??


■認識の統制化とイメージについて

前にこう書いた(`・ω・´)ゞ

—▽ココカラ▽—

ところでこの「期待」だけれども、俺らが(あるいは俺らの身体が/俺らの意識が/俺ら自身が)世界を認識する時に、それを構造化/構成化/統制化するとしたら、いえばある種のゲシュタルトや光や影や奥行きをそこに見出すとしたら、そこにはそういった「期待」のようなものや、その契機や、その期待通りに構造が構成されている事を望むような認識的な動きがないのだろうか??そうなると、この期待のような動きは俺らの認識において極めて重要か、あるいは本質的な部分の一端ではないのだろうか。まあ俺的には、その期待は、あるいは期待される構造は、スタティックに存続するのではなく、無数の契機のなかでダイナミックに存続し、またあるいは姿形を変えていくような気もするけどね。俺らがそこに「スタティックな構造」を求めようがどうだろうが、それはスタティックにあるのではなく揺れ動いていくっつうか。なんかこの考え方仏教ぽいな(;・∀・)

—△ココマデ△—

ところで「樹」とか「蠅」とかいうイメージは、おそらく、俺らが自然に構造化/構成化/統制化しやすいものを抽象化したものだ(そこに言語がはっつく事もあるだろう)。しかし「自然な」構造化/構成化/統制化というものは、「確実な」あるいは「決定(論)的な」構造化/構成化/統制化なのだろうか??構造化が起きる前の世界はもっと流動的なのではないだろうか。例えばこんなだまし絵みたいに。

Aという構造がAという構造である手前に、それが何でもないという状況/汲み取られる前のものでしかない状況(言ってみれば「老婆/若い女性」の絵が、老婆とか若い女性とか解釈される前の状況)というのはあるのではないだろうか。それはある意味では「老婆」や「若い女性」といった同一性の発生の場であり、また構造化/構成化/統制化の方法によってはその同一性を崩していく差異の発生の場ではないのだろうか。

俺もこれ書いてて自分が何書こうとしてるのか謎なんだけど、差異と同一性を同じように発生させる契機の場/流動の場みたいなのがあるような気がする。それについて想像しておくこと/触れておくことは、差異と同一性を分割してしまう考え方に入ってそこから出る事なく立派な認識論系を構想するよりも、俺にはとても重要な事な気がする。よく分かってないですげーテキトーな事いうけど、俺らの生は、1つにはそういう差異も同一性も同様に生じさせる場に根を下ろしているような気がする。そうでなければ俺らは塵にかえれず、俺らは俺らでしかいられない。俺の感覚だが、俺らが俺らでしかいられないなんてのは、息が詰まるような事ではないのだろうか。そこは開いておらず、風は通らない。俺にとっては、俺が死に、分解され、塵にかえらないとするなら、あるいは生と死が生じる場にかえらないとするなら、俺が俺であるという事は、風の通らない墓穴にいるようなものだ。


■生理的様式、化学的様式、物理的様式の逆転について

多くの場合、物理的様式が化学的様式を支配し、化学的様式が生理的様式を支配するように見受けられるのだろうが、生命に関していえば、そこに逆転が生じるようにも思われる。つまり発生段階では物理的様式が化学的/生理的アクションの連鎖を引き起こすのだが、ある段階で、生理的様式が、それ自身の要請に従って、化学的様式や物理的様式のアクションを要請するように見受けられる、という事だ。そこには生理的様式自体が生理的様式自体を支えようとし、そのために化学的様式や物理的様式のアクションを駆使する、という現象が起きているようにも思われる。

※2:これを仮に既存用語で自己組織化というとしても、それは物理レベルの自己組織化とは明らかに違うように感じるがね。自己組織化というよりも、継続的自己創発、みたいな感じっつうか。そしてこの見立てがあっているとして、継続的自己創発が止んだ時に生命は塵にかえる事、継続的自己創発はある意味では非-人間的(あるいは非-倫理的、あるいは人間的な倫理を度外視した)な様式で進行しようとするであろう事、そしてそういった事の上に、そういった事とはまた違うカタチで「人としての生き方、あるいはある種の倫理」があり、そしてそれらは様式として矛盾し得る事、等々といった事に、生命や人の愚かさや浅ましさや、強靭さや醜さや、希望と失望や、ある種の美しさが生じる可能性もあるのではないか、という気もするがね。

※3:ちなみに生殖はこの継続的自己創発が、ジェネティックな方法で、それはつまりソマティック的には断絶を用いた方法で、受け継がれているプロセスにも思える。しかし「ジェネティックな方法で、それはつまりソマティック的には断絶を用いた方法で」といったように、そこには継続的自己創発の単純な継承があるのではなく(いえば生(生理プロセスorクレアトゥーラ)→生(生理プロセスorクレアトゥーラ)への継承ではなく)、死(物理プロセスorプレローマ)から生(生理プロセスorクレアトゥーラ)が生まれるようなプロセスを経た「生→死→生」の継承があるようにも思える。それは1段階ロジカルタイプが深いともいえるし、あるいはまた、そこには生の継承以上のものがあり得るって事ともいえると思う。死を超えて生をつなぐものの継承もそこには含まれ得るっつうかさ。そしてその「死を超えて生をつなぐもの」あるいは「ある種の断絶を超えて何かをつなぐもの」を、場合によっては(ある種の)愛/愛情だとかなんとかいったりいわなかったりするんすかね(少なくともソマティックレベルでそのような「断絶を超えて伝達/接続を試みる、行動/コミュニケーション」か、あるいはその「断絶を超え(て伝達し)ようという意志/方向性/感情」は、そのように捉えられる場合があると思う。もちそうでない場合も無数にあるだろう)。

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