2017年10月29日 - 80

心について、環世界について

環世界について、下記のページの「同じ世界や空間を共有していても、その様相は観測者たる動物の数だけ異なり、皆が自分にとって意味のあるもので塗り固めた幻想の世界で生きているため、そうした主観的に創り上げる世界の理解なくして対象の理解はないというのが『環世界』という概念であり、考え方です(少し脚色が入っていますが」って記述は面白かった。

ところで、今このように提示されている、見たり聞いたりする感覚で感じられる世界があって、そこに何者かがいるとする。その場合、その世界におけるその何者かの振る舞いは、俺らは見たり聞いたりする事が出来る。これを仮にアクセス可能なレベルって事で基準レベルって事でレベル0とする※1。

※1:何がアクセス可能なのか、また後述するけど何が(確度が高いと感じられ)推測可能といえて、何が(確度の保証付けが弱く)推測の域でしかないとしかいえないのか、みたいなとこは、安易に分けていいものではないと思うが(どっちも「推測」っていってて、ちょっと日本語ヘンテコでさーせん)。

ところでその振る舞いから、俺らはその何者かが、○○のような性格、○○のような考え方、また上記のいい方でいえば○○のような主観的に創り上げる世界、を生きているものだと想像/推測する事がある。その意味で、その主観的に作り上げられた世界、その何者かが生きているであろう意識というのは、基準レベルから1段階の推測を経たものと捉えられる(雑に言えばね)。その意味で、それはメタレベルにある(これはレベル1とする)。

そしてまた、その主観的に作り上げられた世界を作り上げた作用/機能/力が、その世界の奥行きにあると想像/推測するなら、その作用/機能/力は、基準レベルから2段階の推測を経たところにあると捉えられる(雑に言えばね)。その意味で、それはメタ-メタレベルにある。ところで俺らの心なるものがあるとしたら、それはこのメタ-メタレベル、あるいはメタ-メタレベルを構成する、その更に内奥の機能レベルにあるものではないのか(これはレベル2以上とする)。

そしてコミュニケーションなるものの際に、俺らはそのメタ-メタレベルの作用を読もうとしながら、コミュニケーションを行うものではないのか。その作用のあるところは少なくとも、雑にいっても、2段階(以上)の推測を経たところのものだとして、それを(アクセス可能な世界に提示された振る舞いから)十全に推測し切るというのが極めて難しいかあるいは無理にしろ(それは自分自身にも無理なのかもしれない)、そのようなところへ想像/推測を至らせるスタンスを失っては、ある意味でのコミュニケーションの本質的なところ※2を喪失してしまうのではないだろうか。

※2:その試みがおそらくは(ある種の)到達不可能性への試みだという事への了解と、しかしそれでも想像を至らせようとするスタンスを放棄しない事と、そこで想像力の射程に現れる出来事への/出来事からの無数のアプローチ/メッセージに向き合う事、等など。

※2.1:ところで自分で腕を動かした運動感覚と、実際に鏡に映った(or誰かに見られる事が可能な)腕の運動が往々にして異なるように、実は俺らがいるのは(生きているのは)、レベル0ではなくレベル1だったりするのではないだろうか??そしてそこに、こちらで諸々思ったり感覚したりするのはレベル1なのに実際に身振りなどで表せるのはレベル0でしかない、あるいは相手からやって来るメッセージはレベル0でしかないのにそれの発信源はレベル1かあるいはもっと深いレベル2以上かもしれない、というある種の非対称性(?)だの隔たりだのズレだのってのがあったりなかったりするんすかね??

※2.2:そして推測せざるを得ない世界というのは、おそらくゲーム(ルールが決まっている出来事)的ではない。それは少なくとも探究的で、場合によっては学習的で(それは往々にして覆ったり裏切られたりもするものだが)、そしてある面では発生的なひろがりを持つものなのではないだろうか。そしてまた(おそらくは何もかもを)推測せざるを得ない世界の生きたものを語るのに、ある地点で推測を完全に停止した語りの系(公理系)はおよそ向いていないのではないのだろうか。

※2.21:「公理的(ゲーム的)ではなく探求的」という世界観を選択した場合、例えば、物理学の〇〇の法則なんてのは「世界において(俺らと無関係に)『定まった』何か」ではなく「俺らがレベル0の世界に『期待している』何か」なのではないだろうか??あるいは数理や論理などの公理的なゲームも「公理は壊れない(ついでに言えば演算子も壊れない)という期待」の基に展開されているだけで、それがゲームの最中に壊れない保証などどこにも無いのではないのか??極端な話、俺らはこの世界に、探求的に推測したり期待してるだけなのではないだろうか??(例えば現代における科学やエビデンスの信仰なんてのは、それこそ共同幻想的な期待なのではないだろうか??)

※2.22:ところで期待って事でいうなら、自分自身の「世界への期待」を別の誰かが抱いているのも当然だ、あるいは、自分自身の「世界への期待」通りに別の誰かは振る舞うべきだ、なんてのはそれなりに馬鹿げた事だ。誰も彼もが生きる世界はおそらく違うのだから。

※2.23:2.21に書いた「物理学の〇〇の法則なんての」(あるいは全ての法則還元的な演繹的なもの)について極めて極端なことをいえば、あれは期待され得る何かの系、ですらなく、期待され得る何かに期待している俺ら自身の期待の系、ではないのか??そこに(メタ的に)現れているのは、法則や、法則で表される何か、ではなく、期待という心情であったり、その心情を持つ俺らの(揺らぎ得る)姿ではないのか??

※2.24:ところでこの「期待」だけれども、俺らが(あるいは俺らの身体が/俺らの意識が/俺ら自身が)世界を認識する時に、それを構造化/構成化/統制化するとしたら、いえばある種のゲシュタルトや光や影や奥行きをそこに見出すとしたら、そこにはそういった「期待」のようなものや、その契機や、その期待通りに構造が構成されている事を望むような認識的な動きがないのだろうか??そうなると、この期待のような動きは俺らの認識において極めて重要か、あるいは本質的な部分の一端ではないのだろうか。まあ俺的には、その期待は、あるいは期待される構造は、スタティックに存続するのではなく、無数の契機のなかでダイナミックに存続し、またあるいは姿形を変えていくような気もするけどね。俺らがそこに「スタティックな構造」を求めようがどうだろうが、それはスタティックにあるのではなく揺れ動いていくっつうか。なんかこの考え方仏教ぽいな(;・∀・)

※2.25:ちなみに俺は「全部ダイナミックだから良く分からん」って事にするんじゃなく、自分らはダイナミックなとこに立ってる/いる(あるいはまた自分ら自身もダイナミックで揺れ動くものである/そこに根がある)、って腹を括った上で「ダイナミズムのパターン/姿/ありよう」を「スタティックでない足場から捉える/ダイナミズムにダイブする/ダイナミズムのなかで戦う」って試みをするのが妥当じゃねーかと思うぜー。

※2.26:ところで、電信柱的なアレを電信柱って毎度言っていいってのは、偉そうとは言わなくてもちょっぴり怠惰ではないだろうか。電信柱的なアレも、時々だったりいつもだったりは、電信柱じゃなくなってたりはしないんだろうか。言葉的なアレが起きる契機みたいなのを放置して、電信柱的なアレは常に電信柱だっていうのはどうなんだろうか。

※2.3:公理的なものについて俺の見解をいえば、世界には決まった事とそれ以外があるのではなく、ある程度硬く動きづらいものとある程度柔らかく動きやすいものがあって、しかし全てのものは動いて壊れてしまう可能性を持っているのではないか、と想像している。またその意味で、推測が止まっていい(=これは決定的で正しくて覆しようも壊れようもないので、これ以上疑ったり推測しなくてOK!という)「本質的な地点」というのはないのではないか、と想像している。推測を止めるのは「まあこの程度で十分だろう」とか「これ以上は大変だ」という理由によるものだと俺は想像している。

※2.4:極めて雑にいえば、俺らはレベル1に生きて住まい、推測でしか生きられないレベル0を想像世界に構築し、またレベル2は通常は間接的にしか生きられず(というか直接は無理でも間接的ならいける気もする)、そして「推測的にしか生きられないレベル0から自身のレベル1に、そして時にはレベル2に入力される情報」を介して、そこからさらに推測されるしかない誰かのレベル1とコミュニケーションを行おうとしたり、さらにはその誰かのレベル2を推測して何かを届けようと/伝えようとしてみたり、みたいな事をしているのではなかろーか。あるいは時には、隔たりとしてのレベル0だのレベル1だのを承知の上で、レベル2あるいはさらに内奥/深奥のレベル同士のコミュニケーションを望んだりしているのではなかろーか。レベルのマッピングを勘違いしてるとこあるかもだけど、雑にいえばこんな感じな気もするっす(`・ω・´)ゞ

※2.5:例えばだが、その人にとっての意味のある風景/響く風景、あるいはそういった音楽なんてのは「その風景が描くパターン」が描くメタメッセージのパターンであったり、「その風景が描くパターン、が描くメタメッセージの描くパターン」が描くメタ-メタメッセージのパターンが、俺らのレベル1だの2だのそれ以上の深度に伝わる、あるいは示唆する形の情報を提示/伝達しているからかもしれない。

※2.6:ところでこのレベルのマッピングを、ベイトソンの学習レベルのマッピングと照合する事は可能なんだろうか??

※2.7:ところで/そして、レベル2あるいはそれより深い領域の動きを感じた時に、俺らは、例えば自らを浅ましいと感じたり、こういう事が起きるなら生きてみるのも悪くねーなと感じたり、等など、あれとかこれとかを感じたりするのではなかろーか。

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