2017年11月5日 - 80

メモ:存在の脆さや認識の脆さについて

俺自身に知なるものがあるとして(あるとさせてくれw)、それの依るところ、例えば俺の意識、俺の認識、俺の存在というものは、とても曖昧で、揺らぐ(スタティックでない、という意味でダイナミックな、と言ってもいい)ものではないのだろうか。俺はそう感じる。その俺が、例えば絶対的な正しさに依って何かを認識できると思いだしたら、それはずいぶんと馬鹿げた事のように感じる。

反証可能性とかを使って、演繹と帰納の繰り返しだの反証だのを重ねて、より正しそうな公理(演繹的体系)を使い、何かを知ったように思うのもいいだろうが、その何かに触れたり知ったりする俺自身の存在の脆さ、認識の脆さというものを度外視したところで、俺は何を知ったという事になるのだろうか。

そういった演繹的ルールや帰納的ルール(あるいはデータやエビデンス)によって形作られる知の体系なるものが、仮に多少なりともある種の正しさがあるにしても、それを認識する俺の認識というのは、そのように強固で堅牢なものではなく、生きて揺らぐものではないのだろうか(生きる事がこれだと言えるとすら俺には思えない)。そのような、生きて揺らぐものだというところに存在し、またその脆い立ち方から物事を認識しようとしているのだ、というところから始めなければ/そこに立たなければ、一見正しそうな知識の断片をかき集めたところで、何にもならないか、あるいは何もかもが台無しになりはしないだろうか。

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