2017年11月12日 - 80

基準について

石を基準にヒトを説明するよりも、ヒトを基準にヒトを説明した方がいいのではないか??


まず、俺は安定したものなのだろうか。俺にはそうは思えない。意識が生じる時、寝るとき等で意識が消え失せる時、目を閉じた時の感覚、等々から、俺は自分が血が止まったり呼吸が止まったり大きな損傷を負ったりすれば、消えてなくなるもののように感じる。

俺の目の前に石碑があるとき、それは俺より強固に長持ちするだろう。何よりそれは動かない。停止している。それに対して俺は、いえば、俺自身の生命の力で形作られ続けている。この力、この活動が停止する時、俺も消えてなくなるだろう。

俺の目の前に石碑があり、そこに文字が書かれている時、その文字は俺より強固に長持ちするだろう。それに比べて俺の思考はふわふわしたもので、刻まれた文字のように頑として動かないものではなく、あっちいったりこっちいったりする。そこに浮かぶ感覚やイメージも移り変わっていく。

俺は、おそらくは、俺自身の生命の力で形作られ続けている(「俺自身の」って書いたけど別に所有物ではない)。樹もダンゴ虫もそうだろう。それに対して石は、石自身の材質の強度や重さによって形作られている、あるいは形作られ続けている。

そのように、安定せず消えてなくなる可能性を持ち、自身の生命の力で形作られ続け、移り変わるようなもの、が俺だとして、俺についての話、俺についての説明は、そのような「安定せず消えてなくなる可能性を持ち、自身の生命の力で形作られ続け、移り変わるようなもの」が生きたり世界を経験した時に何が起きるか、どうなっているのか、という話や説明、でなければならないのではないだろうか(ちょい強く言い過ぎかもだが)。

俺の目の前に石碑があるとして、その石碑がどうであり、そこに刻まれた文字がどうであるか、というところから、俺についての話や説明が行われる、という事が行われるとする。その時、そこには俺の「安定せず消えてなくなる可能性を持ち、自身の生命の力で形作られ続け、移り変わるような性質」は失われ、まずもって、強固で重くて動かない性質を基とした説明がなされるのではないだろうか。

さんざ石だの石碑だのいってきたが、つまり、演繹的公理展開系による説明ってのは、そのようなものではないのだろうか。俺らの性質にリーチできる説明は、揺らぎ、失われ得る、俺らの性質を基としたところから実行(されようと)されるものでなければならないのではないだろうか。

石や石碑による説明は死なない。しかし俺らは揺らいだり失われたり死んだりするのだから。そしてまた石や石碑による説明は動かないが、俺らは動的平衡的にものごとを壊したり作ったりしながら動き続けているのだから。


あるいはこういってもいい。俺自身の存在を足場にした語りは、俺自身の存在が不確かである程度に不確かなはずだ。そして石だの金属だのが語る語りでない限り、すべての(生きたものの/生命の)語りはそのように不確かなはずだ。そのような不確かさを基としていることに率直にならなければ、俺らの語りはすべて偽りのものにならないだろうか。あるいは不確かさに立っているのにそれを隠蔽して、さも確かな何かを基としたような語りにならないだろうか。


あるいはまた、ある石碑やそこの文字が、あるいはプレローマが、あるいは何らかの演繹的公理系が、確かで強固で永続的かもしれないと思うのは、不確かな俺らではないのか。その意味で、そこから不確かさは拭い去れないのではないのか。

※:あるいはその(拭い去れない)不確かさは本質的に発生するようなものではないのか。その意味で、語りのうちから拭い去れない不確かさまで排除した語りというのは(それを俺らがしてしまうのなら、それは俺らの存在への/存在の仕方への)背理であり本質的な出来事の隠蔽ではないのか。


あるいはそれは権利のような事かもしれない。「これはゲームだから〇〇が××だって事にしようぜw」ってやり方(それもどうかと思うとこもあるが)以外に、「△△は正しい」と俺らがいえるような事があるとすれば、その権利はどこから付与されるのだろうか。(おそらくは不確かさを多分に擁する)現実に立脚してものごとを語ろうとした時に、そのような付与というのがどこにあるのか俺にはちょっと分からない。


そこにあるのは永続性や、永続的な妥当性などではなく、存在の強度のようだ。

日々 / 暮らし方


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