2017年12月31日 - 80

メモ:生物、生命、生の豊かさについて

遅延というのが生物や生命にとって本質的か、あるいは極めて重要なものであるなら、袋というのは生物にとって一つの基本的で重要な形になるように思う。例えば水を入れて運べる袋でもいい。あるいは毛布でもいい。袋は、例えば水分の蒸発や熱の拡散を外界と同じ速度ではさせない事で、それが包んでいるものの変化を、外界の変化よりも遅延させる。

生物の進化が実際どういう風だったのかは俺は知らないが(多分皆そこまで長生きではないから、皆も俺と同じように実際のところは知らないだろう)、この観点からすると、袋状の生命から、管状の生命に変わり、そこから入り組んだ管状の生命に変わっていった、と言われたら、俺はちょっと信じる(ちなみにこういう説はあるらしい)。

その移り変わりは、ただの想像の域でしかないが、遅延の精密化(袋→管、の変化による排泄機構の分化による精密化/汚染の回避)や、一層の複雑化(管→入り組んだ管、による複数の状態やパラメータの遅延可能性の実現)だったのかもしれないとも思える(ちなみにこういう発見(?)もあるらしい)。


ところで生物/生命における遅延が「プレローマ的反応の遅延」だとすると、生命は、プレローマで起こる反応(水がただ蒸発する、熱がただ冷める、というプレローマだけしかないところにおける反応)をただただ遅らせている(「プレローマからクレアトゥーラを経てプレローマへ」という風に迂回している)だけにも思えるところがある。あるいは個体としてそれを遅らせつつ、増殖や繁殖をする事で、自分が死んだ後もその遅延が継続するようにしているように思えるところがある。

俺的にはこんなイメージです。これを生き物の一生だと思ってくれてもいい。

ところでフロイトは「全ての生命は死を目的としている」と書いたらしい。曰く、

「欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするものである。有機体の保守的な欲動は、生命の推移において強制されたすべての変動を受け入れ、これを反復するために保存しているのである。生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。これまでの経験から、すべての生命体が〈内的な〉理由から死ぬ、すなわち無機的な状態に還帰するということが、例外のない法則として認められると仮定しよう。すると、すべての生命体の目標は死であると述べることができる。これは、生命のないものが、生命のあるもの以前に存在していたとも表現することができる。」

との事。これは個人的には目的論的に過ぎる感があるけど、上の図のような働きの中に「〇〇を最終的に目指しているのだろうか」というような目的論的な、あるいは結果への問いかけではなく、その遅延や迂回するプロセスが起きる事で、それが重なる事で、それが連なり続くよう試みられる事で、何かが起き得るとしたらそれは何だろうか/どのような出来事だろうか、という「このプロセスそのものによって、あるいはプロセスの輻輳化や深化によって、何が起きているのか」という、プロセス自体やプロセスの奥行きへの問いかけはあり得るのではないかと思う※1。それは生の(あるいはコミュニケーションの)豊かさや奥行き、あるいはそれに加えて、必然的な分からなさ(見て取れないので想像や推測しか出来ない、という類の分からなさ)と関係あったりなかったりするのかもしれない(適当)。

※1:それは例えばこういう話でいうところの「ちょうど二つの状態に挟まれる渋滞と非渋滞の狭間の臨界的な状態が最もトータルで見た流量を大きくするのである※2」というようなところと、どこかで重なるところがある話かもしれない。いえば、迂回が重なり、複雑さが増し、生のシステムがある臨界へ向かうところに、何らかの価値の増大、あるいは何らかの価値/状態への接近/踏み込みのようなものがあると(単純な流量の増加等とは限らずに。世界には無数のものがあるし、そこまで単純な話ではないようにも思うが。例えばある流量が増大する事で顕わになるものがある、とする。すると価値の増大は流量の増大ではなく、流量増大をトリガーとして起こるそれの顕われではないか、という事になるようにも思う。あるいは顕われたそれの流量が上がる事によってさらに顕われるものがあれば、価値の状態はそれではないか、という事になるようにも思う)。

※2:めっちゃ話飛んで、自然界のなかの数学、みたいな話で言うと(こんなのとか)、ここにあるもののより本質的なものは、(リンク先の例で言えば)フィボナッチ数列ではなく、フィボナッチ数列という命題を(その植物がいる環境において)真足らしめようと/姿形として表現させようとする力(?)のようなものではないのだろうか??いえばより本質的に/深くそこにあるのは、フィボナッチ数列として発現した系ではなく、「フィボナッチ数列として発現した系」を発現させた系ではないのだろうか??※3

※3:ところで生き物が怒ったりするのは、この「この命題は真である」あるいは「この命題は真である、と表現しようとしている」ものが、「それは偽である」あるいは「それを真と表現しようとするのは偽である」のようなメッセージを突き付けられた時な気がする。それはいえば存在否定のようなものかもしれない、そしてまた、その命題を真足らしめようとするのはあくまでもトートロジカルな働きなのかもしれない(この辺は今の俺には分からないし、それにこれは「分かる/分からない」のようなアプローチを行う事ではないかもしれない※4)。

※4:これは重要なことではないかと感じるが、そのような出来事に対するアプローチは「あなたは、あるいはあなたの心は、その命題を真と捉えている、あるいはその命題を真だと表現しようとしている」というようなアプローチではないように思う。そのような暴くようなアプローチではなく、ある意味では寄り添うようなアプローチをしなければ、そこにコミュニケーション(の一端。極めて雑にいえば、その命題を真だと表現しようとしていたものが、それ自身が堰き止めていたものを解放すること)は顕われないのではないかと想像する※5。

※5:これも極めて雑にいえばだが、こういった見方に立てば、心とは、真とされるある命題、の群であったり、その命題を真足らしめようとする/真だと表現しようとする力あるいは力積の束(あるいは配置)※6※8なのだ。ある意味では、その力積の束がどのように成り立っているのか(そして本当は(?)どのようにその力を解放したいのか/流したいのか)というのが重要なのだ。そしてその流れの解放が起こるとしたら、それはおそらく、暴くようなアプローチをされた時ではないのだ。

※6:例えば俺らはコミュニケーションの場で、(無数に移り変わる表現型から)そういった力積や配置の軌跡を読み取ろう/推測しよう/推察しようとして、あるいは直接には読み取れないものとして/間接的にしか推測出来ないものとして反応を(定式化せず、つねに)伺おうとし、アクションをかけているのではないのか??※7

※7:ここで定式化しないのは、それが定式化して良いものではないから、ではないのか??少なくともそれを定式化する事で、変化する(表現型としての)世界の奥行きにある力積(そんなものがあるとしてだ)への、力やメッセージの経路は絶たれる気がする(ところで力やメッセージと書いたが、そこに伝えられるのは自分から放たれた力やメッセージでしかないのかもしれないし、そうでないのかもしれない)。

※8:これは感覚的なものあるいは想像でしかないが、生命は、生命が解放(リリース)されている、という命題を(色々なもののうちに押し込めずに)リリースするのを目指しているのだろうか※9。

※9:ところでこれがそうだとして、そしてまたある生命がリリースされるがために、他の生命が殺されることもある、という事があるなら、それが生きた世界の悲哀、馬鹿馬鹿しさ、愚かさ、哀れさ、の1つの要因なのかもしれない。

※10:きわめて単純な、あるいはごくごく雑なイメージとしては、生命は(あるいはもしかしたら心も)、袋と内容物の様なところがあるものかもしれない。それは袋自身に貯まった内容物をリリースするかまだ貯めるかを、袋自身が検知調整するようなもの、あるいは無数のそれの集まりだ。自身の(量的な、あるいは配置も含んだ)状態を検知して、そこからある命題のリリースに向かうかクローズに向かうかを調整するような再帰的なシステム※11。そしてまた、クレアトゥーラのプロセスにおける複雑さ/迂回のまっとうな深化(目的論的な結果の深化ではなく、プロセスそのものの深化)とは、そのリリースにおける生命の顕われの豊かさの深化なのかもしれない※12。

※11:ところでこの調整的再帰的システムは「システムのうちの何らかのアナログ量」を検知する「何らかのデジタルシステム」がシステムの外部にあるような、アナログとデジタルが分かれたタイプではないのではないかと思う。そうではなく、全体的な調整を行うアナログのみのタイプであるのではないか、と想像する。これは言い換えれば、システムの外部にチェック機構を持たない、システムのみでシステムの状態をチェックするような、トートロジカルなシステムである、という事だ(デジタル的なチェック機構がシステム内部に組み込まれているならそれは構わない。それは大きく見ればトートロジカルなシステムだからだ)。ここの判断や想像は俺には何ともいえないところだが、ただ少なくとも、外部にチェック機構があると想像すると、それはそのチェック機構の外部にまたチェック機構があり。。。という無限遡行になってしまうような印象がある※13。

※12:そこにおける無数のメッセージは、無数のシーケンスヘッダと無数のシーケンスボディで出来ているのかもしれない。おそらくだが、そのメッセージ達もまた、最終的には外部による「支え」を持っていない(あるいは持っているとも持っていないとも語れない)のではないだろうか??

※13:ただ、システムはトートロジカルなのではないかと想像する一方で、無限遡行を安易に否定する気持ちにもなれない。この辺りは、システムはトートロジカルだけれども、その存在はある種の無限に対して開かれている、という事になるのかもしれない。なぜならば、トートロジカルなシステムは、外部に対して自ら以外の何の支えも持っていないからだ(あるいは持っているとも持っていないとも語れないからだ)。それはつまり、外部というある種の無限に対して、存在としては開かれている/臨んでいる/放り投げられている、というカタチになるのかもしれない。そのため「外部という無限の先を否定できない」という意味で、どこかに無限遡行が起きる可能性も否定できないのかもしれない。そしてまた同時に、トートロジカルなシステムと外部との関係のうちには、ベイトソンが「マインド」のネットワークと語ろうとしたことも感じられるのかもしれない。この辺りはあまりに大きすぎて、俺にはまだよく分からない。またこの辺りについて感覚的であったり感傷的であったり、あるいは限定的かもしれないことをいえば、全てのトートロジカルな生きた/生きようとするシステムは、システムの外の無限(という分からなさ)に対して、自身を含めた無数のメッセージを投企して、それの伝達や開花、あるいはそのメッセージをそもそも発したところのものの伝達や開花、あるいは自身というシステムそのものの開花、あるいはコミュニケーティブな状態の開花を目指すところがあるようにも感じられる※14。またそれは無限に開かれているが故にもしかしたら無為かもしれないが、しかしそれを行おうとするのは無為だから/無為でないから、という判断では動作しない出来事な印象もある※15。

※14:フロイトが死の欲動と呼んだものは、こういった開花のうちのシステム同士の混淆(あるいはシステムだったものの分解)、いえばある面でのコミュニケーティブな状態の実現への希求を含む(あるいは少し重なる)のではないのか??

※15:これもごく感覚的なことだが、こういった「1つの存在としては無限に対して放り込まれている」というのともしかしたら似たところがあることとして、俺らの認識は奥行き(もしかしたら無限かもしれない奥行き)に対して開かれている、というのはあるのかもしれない。少なくとも俺は、そういった奥行き(を見る目)を閉ざすように働く「ある種の自明性の受け入れ」に対してはひどく懐疑的だ。奥行きの先にあるものであったり、奥行きの先を見ようとすること自体がもしかしたら本質的かもしれないし、あるいはそういった自明性を受け入れたら物事や世界や豊かさや美しさなどを見る目を失うのではとさえ思っている。


ところで豊かさと書いたけど、俺は個人的には幸せ(「いわゆる幸せ」)という概念や考え方はそれ程好きではないっす。話が飛ぶようだけど、俺は、真に”オープン”な状態は、その内にオープンもクローズドも包含するはずだ、と思う所があります。俺はこの、真に”A”な状態は、その内にAも非Aも包含するはずだ、という伝え方はいくぶん気に入っています。

で、思う所だと「その内に豊かさも貧しさを含む豊かさ」というもの/状態はありそうですが、「その内に幸せも不幸せも含む幸せ」というもの/状態は若干想像が付きづらいっす。ここは個々人の幸せなるものの捉え方もあると思うので、あくまでも俺の印象からするとだけど、「幸せなるものが不幸せに対して排除的である」から、先の状態が若干想像付きづらいのかなと思います。逆に、これもあくまでも俺の印象ですが、(生態系や生き方などにおいて)貧しさを排除しない/含んだ豊かさというのはあるのではないのかなと想像します※16。

※16:逆にそれがないと怖いというか。ちょっとガサツな見方or違う話かもだけど、死、貧しさ、暗さ/昏さ、厳しさなどがないと、(あるいは豊かさと貧しさや、生と死など、異なる状態/複合的なものがないと、)そのシステムの底/還るところ(あるいは生じるところ)、ってのが見当たらない感(;・∀・)


ところでこの頃人工知能って流行ってるけど、知能って生命現象なんだから(俺的にはだけどな)、生命現象から発生したものでないと知能とは言えないんじゃないのかなー??と俺は思ってる。すげー計算が出来るとかではなく、(この辺についてはベイトソンがいうように)虫や木や草が備えている知能/知性を備えてるって事が生命現象に即した知能なのではないのだろうか??

メモ / 日々


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