2018年4月30日 - 80

メモ:雑多なメモ

1月や、あるいはそれ以前から今まで、雑多に書き溜めていたメモだの何だのを書いておきます。


公理の根拠が分からない。全くもって分からない。いきなり「論証ぬきで真だと仮定しろ」ってのでは、めちゃくちゃな宗教と何も変わらない。

ところである種の攻撃性というのは本当に攻撃性なのだろうか。それは自己展開の要請と、社会的なあるいは自己を取り巻く関係性との要請のコンフリクトによる負荷(自己展開の未達や押さえ込み)から起きる、自己展開側からの幾分激しい反応、という面はあるのではないだろうか。そしてまた、これも様々な場合によるが、自己を取り巻く関係性が、(淘汰圧を生じさせる程)密であるということは、ある面での豊かさにつながる事だったりしないのだろうか。

定義は到達/遭遇を先取りしたり覆い隠したりしてしまわないのだろうか??フィードバックループのネットワークのなかでゆるやかに醸成されていく知見群をあらかじめ先取ることはできない。あるものが何か、ということが分かるのは最も最後だ。俺らはそういったものに、様々な様相で様々な角度で遭遇する。それは変わり続ける。定義や名が体を表し続けるとは限らない。到達/遭遇するまでそれが何か、とは語れない。あるいはその語りは現在(まで)のそれについての語りでしかない。俺らはものごとに最後に辿り着く。名前は始まりに過ぎない。名前はものごとのすべてを語れない。

コンテクストや構造や奥行きのうちに立ち現れるかもしれない無限かもしれないもの、を人は名で呼んでいるのだ。名とは、まだ現れていない無限への示唆なのだ。その輪郭のうちのまだ現れていないものも含めた全ての可能性を呼ぼうとするものなのだ。名もまた無限への投企なのだ。そういった場所で、自らの構造の提示、さらけ出しがあるとして、それはシーケンシャルに、コンテクシャルに伝えるしかないのではないのか(このたぐいのコミュニケーションにおけるメッセージのコンテクスト性あるいはシーケンス性の必然性)。

俺らはゲシュタルトを生成し続けるゲシュタルトとコミュニケーションしているのだろうか。あるいは俺も(「生きて」いるときは)ゲシュタルトを生成し続けるゲシュタルトで、そういうものとしてコミュニケートしようとしているのだろうか。あと死んだらそこにはゲシュタルトは生成されない、あるいはゲシュタルトを生成しなくなった状態を死というのかもしれない(この辺は多分あとでオートポイエーシスの話につなぐ)。

時間なんてものはどこにもない。あるのは順序と速度と繋がりと断絶、あるいはものの動きのコンテクストとその速度だけなのではないだろうか。

俺らは示そうと出来るのであって、示せるのではない。ある身振りが、それによって示そうとしているものを示せる保証はどこにもない。身振りだの言語だの(それらは同じなのだろうが)の到達率が100%と保証されないのなら、それは無限への投企なのだ。「A(という指示の身振り)」がAなるものを示せる程度が100%(という物差しに乗っている)だという保証はどこにあるのか??物差しに乗ったものしか100%などという風には示せない。そして本質的には、全ては物差しに乗っていないのではないのか。

意識が身体の生み出す夢のようなものだとすると、コミュニケーションとは、ある夢が、別の夢に(別の夢の母体を自らの母体に同化せずに)辿り着くための手段だ。それは無限に対して開かれ、またつながっている(そしてある夢と別の夢とが違う程度に孤独なのかもしれない。またある夢と別の夢とが同じである程度に似通っているのかもしれない)。母体の顕現は、いえば意識の死だ。そこにはつながりがあるが、もう意識はない。ところで、死は時に重要視されるが、死よりも、死も起きる場所や領域にいることが重要なのではないのか。そしてまたここにあるのは、夢同士の到達し合い、殺し合い、生き合い、淘汰、などといったものなのではないのか。

生物/生命がやっているのは遅延の継続なのか??それだけとは違う何かなのか??

シーケンスを追っていくと反応がまっていたりするのだろうか。

全ての言語やメッセージやコードは示唆でありそして象徴なのだ。

無感覚、無関心、麻痺、が根底にあるような出来事がある。不感症の出来事だ。それは多くのものを殺すものだ。

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