2018年5月19日 - 80

メモ:オートポイエーシス的なものについて

俺らはゲシュタルトを生成し続けるゲシュタルトと会話しているのだろうか。生命とはそういったものなのだろうか。

ゲシュタルトは明確な境界をもたない。それは崩れる。またそれは摂食などによって外界を取り込む。そこには(いえば物理的には)境界は無い。そこに境界が(オートポイエーシス的な意味で)あるとしたら、それは抽象的なものだ。プレローマより上の部分(クレアトゥーラ自体や、プレローマからクレアトゥーラに至る部分)は全て、いえば、(抽象的な)幻※1のようなものなのではないのか。

※1:プレローマには、おそらく、文字通り「何も」ない。そこは力や重さや衝撃「だけ」の(動詞的でしかない)世界であり、「岩」や「鉄」や「原子」すらない(あるいは「境界」も「情報」もない)。そこに岩だの鉄だの原子だのがあるというのは、つまり「それ」なるものが「そこ」にある、というのは、クレアトゥーラにおける意味付け/情報の姿においてそうなのであって、それはプレローマ(という「すべての『 情報/意味/システミックな繋がり』が失われた世界」)においては抽象的な幻であり、クレアトゥーラが崩れ幻が滅びた時には、「そこ」も「それ」もないのではないのか。そしてまた意味の世界/生の世界/幻であろうかもしれない世界※2、に生きている俺らが「意味が消えたプレローマの世界」に至ることもまた不可能なのではないのか(なぜならそこに至る事が出来たのなら、その時は俺らは影も形も意味も何も「無い」し、例えば「意味としての死」すら「無い」のだから)※3。

※2:ものごとがあらかた「動的な/定常的な状態の無い、トポロジカルなネットワーク」であったり「何者かから、そのようなトポロジカルなネットワーク/ゲシュタルトだと見出されるもの」であるなら、ある意味では、そのもの自体というのはどこにもなく(あるいは常に一時的でしかなく)、ものは、そのもの自体を指し示し続けようとするそれ自身の象徴/ベクトル/導線なのだ、という話になるのだろうか。あるいは俺らはそのような象徴/ベクトル/導線を、ものの姿のうちに見出して、(そこから指し示される)そのもの自体に触れようとするのだろうか。分かりやすいものに限らず、木や葉のざわめきの中におぼろに見出される「森の精霊」のようなものでも。

※3:この辺の話は、そもそもほんとにプレローマなんてあり得るのか、とか、プレローマのうちにクレアトゥーラの萌芽はあったり無かったりするのか、みたいな想像にもなるかもしれない。まあ今の俺にはそういった辺りは全然分からんですが(/ω\)ただこういうのは「話の論理/話の流れ」で話を進めてもなんもいいことないので、自分の感覚やアプローチから進めていけるよう、迷いつつじりっと踏み込みます。

食べること、死ぬこと、蝕むこと、(ゲシュタルトが)消えていくこと、などは密接に関係している。あるいは、生命、異物、勘違いによる異物の取り込み、変異、死、毒※4、などは密接に関係している。そこに決まった姿はない。姿はいつでも崩れて変質していく。。。そこに何か「定まったもの」を得ようとするなら、それは満たされない欲求になるかもしれない。あるいはシステムは常にゲシュタルトを維持するために何がしかのものを必要としつづけるのかもしれない。そういったものはある意味では、満たされることのない/満たされることが続かない餓鬼のようなものだ(そういったものでありつつも、何がしかのものを他に与えようとするシステムもまたいるように思う)。

※4:例えばオートポイエーシス的なトポロジカルなネットワークが、それ自身がそれ自身に対して入力も出力も行わなくても、外力によるダメージや変異などで途切れたり捻じ曲げられたリした時、それは自らの姿をどうしようとするのだろうか??そういった外力による破壊的変化は、システムが生きていればいくらでもあり得るのではないのか??

もしあるシステムAと、別のシステムBのあいだには「境界」なるものがあるなら、システムAがシステムBを「取り込んだ」なら、そこにはシステムAしか残らない(あるいはシステムAとシステムBだったものしか残らない)。それは同化でしかない。しかし、コミュニケーションが「境界をもつシステムAが他のシステムBと、同化せずに、何らか(例えば情報の、物質の、感情の、悲喜こもごもの)の伝達や交換を行う」というものだとするなら、そこでは同化ではない(少なくとも同化だけではない)何かが起きたり生じたりしている、という事になる。

システムに境界があるから起きる色々なことのなかで、(それがあるからこそ)システムは諸々の葛藤や飢えや願望を引き受けることになる。しかしその境界がなくなった世界には、おそらくもうゲシュタルトはない。。。

例えば生命は、ゲシュタルトを生み出し続ける、シーケンシャルな流れそのものなのだろうか。

あるブログに書いてあった「一般化すれば、構成素の産出が基礎づけ関係によって連鎖しているだけで、まだ産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉域を形成していない時点」というものの状況について俺は知りたい。ざっくりいえば、そういったものの見方を広げていくが、公理的なものの見方/すでに出来上がったものor命題がある(そしてそういったものor命題は受け入れざるを得ない)といったものの見方ではないものの見方につながっていくような気がしている。

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