2018年7月29日 - 80

メモ:廃墟、ストレス、幻想について、他

酔っぱらって書いてますさーせん(*´▽`*)


俺は廃墟っぽい場所が割と好きなのだが(怖い場所は苦手ですすんません(/ω\))、ああいった場所は単に自然が多いという事なのではなく、「人為的に構築されたものが滅びていく」様を自然と建造物などの崩壊や人が住まなくなる事のうちに映し出すようなものではないかと思う。

それはある意味では「人為的に構築された意味系」が滅んでなお、いえば社会的なもの文化的なものが滅んでなお存続するものがあり、自分はそういった「社会や人為と無関係に存続しているもの」に属していていいのだ、という事を伝えてくれる。少なくとも俺にはそういったところを持つ。

それはある意味では、社会からの離脱であり、人為からの離脱であり、社会や人為によって絡めとられる前の状態への移行や、あるいは一種の回帰なのではないのか??少なくともそこに延々といたい訳では無いと思う様なストレスがどこかに、あるいはそこかしこにあるからこそ、少なくとも自分は、時に廃墟のような場所に行きたくなるように感じる。

ところでしかし、生命にとって、生きる事は(あるいは生存系に参画し続ける事は)ストレスではないのか??つまり単純な意味での負荷ではないのか??生命が、自己が十全に存続できるとは限らない環境で過ごそうとしてあれこれしているのは、その生命にとってのストレスなのではないか??そしてまただからこそ、そこには何がしかのものへの回帰願望が生じるのではないか??(「負荷からの離脱」だけでなく「可能性の多い状態へのシフト」もそこにはありそうだが)

すでに生きて負荷を受けてしまった者、姿を具体的にして可能性を狭めてしまった者が、負荷を受けることない安心な状態や可能性が多かった状態/世界に移行しようというのが、あるいは単なる/ただの生命のカタチに戻りたいというのが、回帰願望の一つの要素ではないのか??

そこにある願望は、社会的圧力や生存的圧力からの離脱や逃避かもしれないし、原初的な状態やプレローマへの帰還(生存系のストレスからの完全な離脱)かもしれない。ざっくり言えば、そこにあるのは社会系や生存系からの離脱と、生命系へのノスタルジーなのかもしれない。しかしまた思うのは、プレローマへの帰還を本当に臨むとしたら、それは生命系への回帰ではなく、結局は全くもって破壊的な死ではないのか、という話だ。


共同幻想という言い方があるが、コミュニケーションとは、共同ではない幻想を繋いだり伝えたり交換したりする行為/試みなのではないのか。そこに、そもそも断絶のようなものがあるので、コミュニケーションのようなものはある種の価値を持ったり、あるいは時に何らかの限界的な方法だったりするのではないのか。


物理学的に描かれた飛ぶ鳥には、鳥の姿が描かれていないように感じる。そこには鳥が持つかもしれない、生命の揺らめきや認識の揺らめきが無い。鳥が、鳥自身にとって知る事のない不確かさのうちから、鳥にとっての認識を生じさせ、そして鳥はその不確かさを根拠にした認識を信じることで自らの飛ぶ行為をカタチにしようとしている、という認識や意識のようなものの揺らめきがそこには無いし、その揺らめきをか細い根拠にして飛ぶという事の様(さま)もそこには無い、ように俺は思う。

あまりこの話(認識系が成立するための基盤に、認識系は辿り着けない、という話※1)に拘るつもりはないが、しかし、例えば物理学のようなものは「認識が形成された後の人間」が、世界の中に描いたx軸y軸z軸を起点に描かれた世界でないのか??とは思う。言い換えればそこには、(A)認識が形成された後の人間がx軸やy軸やz軸を描く前の世界が少なくともあり、さらにまた、(B)認識が形成される前の人間がいた(昏い)場所があるのではないのか??と思う。

※1:実際、ほんとにそうなのか俺には分からない。実態とは合っていない話にも思える。ただ単に、俺らは自らの知覚プロセスを知覚できない、くらいの話かもしれない。

ならば「認識が形成された後の人間、が描いたx軸y軸z軸」は、このAとBの2つのうちのどちらにも辿り着きようが無いのではないのか??いえば物理学などは「認識が形成された後の人間」が「特に何も描かれてない世界」に描いたある種の空想絵巻物※2ではないのか??そしてまた人間が視る世界は、少なくとも「x軸だのy軸だのz軸だのを起点にした絵巻物」が描かれる以前の世界であったり、あるいは(自らの認識が出来上がり切った後の世界の姿だけではなく)「自らの認識が、出来上がってきた過程を含んだ世界の姿」ではないのか??もしそうなら、そこには必然的に、認識の、あるいは認識形成過程の、揺らめきが含まれるのではないのか??ついでに言えば俺らもまた、そのような揺らめきをか細い根拠としながら生きようとしているのではないのか??

※2:言ってしまえばこれは、物理学的なものだけが空想絵巻物的なのではなく、例えば俺がこの様に書いてる話や、どこかの民族が世界を語る物語なども、空想絵巻物的なのかもしれない。少し言い方を変えると、どこかの民族の物語や夜話や昔話と、物理学とは、極端に言えば俺には同じようなものに思えるって話だ。そこにあるのは世界や自分たちへの語りや認識論のそれぞれの姿だ、という事なのだと思う。


俺らは、というか、自然科学のようなものが好きな人らは、いつ何時見ても正しそうな話を作る事に夢中になって、自分自身が寝ている時や死んでいく時に世界がどのように感じられるか、自分自身の認識がいかに(自分自身の認識にとって)何が何だか分からない領域から浮上してきたのか、という事に気を払わなくなり過ぎたのではないのか??言ってみれば、immortalに見える話を作る事に夢中になって、(そんなimmortalに見える話を作ろうとしている)自分らの生命や意識や認識がmortalで、揺らめきのうちにあって、自らでは知覚しづらいプロセスのうちから浮上して来たかもしれないようなものだという事に気を払わなくなり過ぎたのではないのか??

ついでに言えば、そのimmortalに見える話ってのは、「起きていて考える余裕があってアタマが明晰ではっきりしている奴」にとってだけのimmortalに見える話なのではないのか。しかし寝ている奴や死人や酔っぱらいはそんな明晰な風ではいないし、そして俺らはいつでも寝たり死んだり酔っぱらったりする事があるのではないのか。そしてまたimmortalな認識論は、起きててアタマがはっきりしている奴にとってだけの認識論で、寝てる奴や死んだ奴や酔っぱらいにとっての認識論ではない、のではないのか。だとするとその認識論は「いつ何時見ても正しそうな話」では決してないのではないのか。そんなものはどこにも無いか、あるいは相当程度に「ゲーム」的で虚構的なのであって、実態としての認識はつねに揺らめきのうちにあるのではないのか。

ある意味では俺らにとって重要なのは、起きててアタマがはっきりしている奴にとっての認識論ではなく、おそらくいつか必ず姿形を失い滅びを迎えるであろう俺らにとっての認識論であったり、何も無かった漠としたところから徐々に姿形を得るに至ったであろう俺らにとっての認識論、といった基底に/そのうちに揺らめきのあるような認識論なのではないのか※3??起きていてアタマが明晰な「人間」のための(そしておそらく自らの知覚プロセスをどういう訳か知覚出来るという事になってるようなインチキのうちにある)認識論ではなく、死や滅びや未生の状態を経験し得て知覚に限界的なところのある者のための認識論がもうだいぶ語られないと、俺らは相当程度に自らの姿や世界の姿を見失っていくのではないのか??

※3 :なお、(俺の話じゃないにしろ)このような科学へのある種の不満のような話を根拠に「命の『法則』」「生の『法則』」などと言うような人がいるが一体あれはなんなのか??「法則」とか言い出した時点で「昏い領域へのある種の誠実さ」を失っている、という事でしかないように俺には思えるし、その誠実さを失うのと同時に命だの生だのを語ろうとする語りを失うしかないところに来てしまっている=「命」とか「生」とか言えるべくもなくなっている、ように思えるんだが(;・∀・)

メモ / 暮らし方


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