2018年7月19日 - 80

ジェスチャーについて その5

A.感覚系、感知系、あるいは意識と呼ばれるものがそうかもしれない統覚系、といったものが「それ自体が動き始める前になんらかの状態があったから、その状態を基として、その上に系が形成されていく事で、系として成立していった」とするなら、感覚系/感知系/統覚系は、自らが形成される以前の、自らの基となったであろう状態をまっとうに感覚/感知/統覚出来ないのではないかと俺は思う。なぜなら自らが形成される以前の状態に差し戻された時、そういった系は解体され、感覚や感知や統覚出来る姿を失っているであろうから。

B.Aのように感覚系などを捉えるなら、例えば、今俺らが感じている世界は、俺らの感覚系などの形成を前提として、俺らに感覚され得た世界だ、という話になる。この辺りの話は簡易的に言ってしまえば、例えば、眼球は眼球が形成される以前にものごとを「視る」事は出来なかったであろう、という話になる※1。

※1:少し脱線すれば、眼球はたった今自らのレンズの裏がどのようになっているかを視る事も出来ないだろう、と俺は想像する。感覚系には、おそらく、必ずその感覚系自体に感覚出来ないところ(そしてそこがないと感覚系の動きが成立しないところ)があり得るのではないか、と俺は想像する。ウロボロスの蛇は自らの尻尾を噛んでいる時に自らの腹を噛む事は出来ないし、自らの腹を噛んでいる時に自らの首を噛む事は出来ない、というような話だ。でもこれが本当にそうかは俺はよく分からない。

C1.ところでまた、Bのように感覚系などを捉えるなら、感覚系が形成される以前の世界は、俺らに感覚し得ないか、少なくとも非常に難しい、という話になると俺は思う。もし「感覚系などが形成される以前の世界にあった、感覚系などの基となったであろう状態」を「根」というなら、俺らの根は「(そこにいた時には感覚系などが形成以前であったか、解体されていたか、あるいは未熟であったか、などによって)まっとうに感覚や感知や認識し得ないであろう」という意味で昏いというか、俺らの感覚や感知や認識の与り知らない状態の姿、いってみれば俺らの与り知らない営みに帰せられるのではないかと俺は思う。

C2.またこの与り知らない営みに「自らの根が繋がっている」という意味で、俺らの認識は「常に確定的な情報足り得ない」ように俺は思う。比喩的にいうなら俺らの認識は、自らのうちに深く昏い世界をもつようなものと言えるように俺は感じる。また俺らの認識は、その深く昏い世界/自らを形成する根の営みに至ろうとした時、必然的に解体する。そこはある意味では認識が辿り着きようがない、しかし認識の根底を成すであろう世界だ、という話になるのではないかと思う※2。

※2:これがそうなら、外界の検証から得られた知見が(例えば化学物質やホルモンなどの作用が)、俺らのうちで「俺らにとって本当はどのように作動するのか」というところは、もしかしたら分からないのではないか(分かりえない領域に属する話なのではないか)と俺は想像する。なぜならそれは、俺らが昏さから浮かび上がり、相当程度に明るくなった世界のうちで触れた出来事の姿であって、俺らがまた昏さのうちに沈んでいく最中に世界を触れ得るときの出来事の姿ではないかもしれないからだ(少なくともそこでは「明るさ」は相当程度に失われ、またおそらく俺らの認識は解体しつつある。カクカクした言い方をすれば「明るい世界に浮上した時」とは観測条件が大きく異なっている)。全く同様に、もしコンピュータが意識を持つなら、コンピュータはなぜ自分が起動するのかを、いくら物理や情報科学の話をしても、最終的には(つまりアタマ?で分かっても体感的?には)分からないかもしれない。

D.仮にC1でいうところの、俺らの預かり知らない営みが、しかし生命的であったり生物的な現象として動いているのかもしれないと想像し、かつ、生命的であったり生物的な現象というのはいわゆるソクラテスの三段論法的な動きではなく草の三段論法的な動きを軸に展開していくのかもしれないと想像するのであれば、その営みのうちにあるのは、原初的な流動性や、ダックタイピング的な連想性や、勘違いの束かもしれない。そのようなところから、幾分なんらかの要請を示しながら(例えば増殖、例えば安定)、俺らは形成されてきたのかもしれない。

E.ところでまたDのような想像が、つまり原初的な流動性や、ダックタイピング的な連想性や、勘違いの束などが、俺らの出自と幾分関与しているとするなら、そういった出自/形成過程を経て、いわゆる世界にやってきた者にとっては、世界は、光や音や匂いや衝撃や痛みや冷たさや熱さや温かさや重み、等々といった無数の感覚が束になって押し寄せるところかもしれない。そしてまた、そういった感覚の束が「つまり何であるか」は、そのような者には分からないのではないかと俺は想像する。そのような者に分かるのは、そういった感覚の束であったり、一つ一つの感覚が、自らの生存や増殖や安定や、あるいは消滅や退縮や不安定にどのように関連しそうか、という印象(やそこに連なる連想)だけなのではないのか、と俺は想像する。その意味で、ある感覚の束が「机」や「猫」と呼ばれるような事があるにしても、そこには「机なるもの」や「猫なるもの」が実際にあるわけではなく、ある感覚の束を、音声などのまた別の感覚と紐づけて「束ねる」やり方が、つまり雑にいえば文化的な手法/方法論があるだけなのではないか、と俺は想像する(ただしこれがちょっと極端な言い方なのは分かる)。その意味では、何らかの感覚の束は、そのような者にとっては「つまり何なのか」はおよそ知る事は出来ない、しかしそれが自らの生存や増殖や安定や消滅や退縮や不安定などにどのように関連しそうかという事(あるいは、それが示す「コードではないメッセージ」がどのようなものかという事)を推しはかる事は出来る、一種のジェスチャーなのではないか/ジェスチャーでしかないのではないか、と俺は想像する。そういったものが(示すメッセージが)組み合わさり、奥行きを持つなかに、俺らは例えば、何かを見出したり想像したり、あるいはそこにあるかもしれない何かに到達しようとしたりしているのかもしれない、と俺は想像する。

F.少なくとも、C2の「俺らの認識は『自らのうちに(自らも与り知らないような)深く昏い世界をもつがゆえに、常に確定的な情報足り得ない』」であろう事、またEの「俺らに出来るのは『世界が何か』を理解する事ではなく、『世界がどのようなところか』を推しはかる事だけ」から、俺らの生とは例えば「名を持ち得ない外界の現象たちに、辿り着きがたい自らのうちの昏さを帯びながら、常に遭遇している事/常に投げ出されている事」のようなところがあるのではないか、という印象を俺は持つ(もちそれ以外の印象もある)。また例えばそのような世界/場で、俺らが営んでいるのはどのような事なのか、という事に少しずつ踏み込んで行けたらとは思う。

–以下余談的なアレ–

G.いい加減同じ事ばっか言っててうぜーのだろうが、Fのスタンスから、俺は「外界の出来事が名を持っているのは幾分当然とし、自らが昏さのない明るい知性である」ように振る舞う(おそらくは想像的な認識論から構成された、)現在の自然科学系の認識論の一部を成すであろうスタンスは、正直理解しがたい、というかおかしいと思う(おかしいという言い方が悪ければ、明るさや知のあり方に対して過度に想像的/期待的、あるいは昏さや影※1や観測自体の不安定さに対して幾分隠蔽的なのではないかと思う)。まあでもGは重要ではない(さんざ繰り返しているけど)。Fのが俺には大事(*`・ω・)ゞ

H.FとGから、雑な言い方をすれば、俺は、昏さのうちへ解体され切って死ぬであろう者として、あるいは昏さのうちから生じて来たであろう者として、ざっくり言えばmortalな者として、世界をどのように生きたり語ったりするのかという問いそのものや、その問いを手放したり隠蔽したりしない事は、(少なくとも何かしらの根底的な世界を失わないために)それなりに/本質的に俺らにとって幾分重要か、あるいは幾分必要なのではないかと思う。

日々 / 暮らし方


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